ホモセクシャルやレズビアンを感情的に受け入れなかったり、御言葉を掲げてダメなものはダメとはなから取り合わなかったりするとしても、正しく(?)夫婦の交わりを持つもそれが肉欲のみであるかぎりは、同じ地上的歓びに留まるという点ではどちらも神の御意からは離れている。その意味では子供が欲しいという切なる願いで関係を持つのであれば、彼等に対して一言はできるのかもしれない。が、全ての問題の根底には人類の霊的無知という課題が横たわっていて、その解決に目を向けない限りLGBTの問題も夫婦や家庭の在り方もいつまでも捉えどころのない浮島のままだ。食口がどれほど熱く人類に対する神の願いを語るとしても、この霊的無知の本当の意味を捉えた上での観に立たなければ、み旨だ摂理だと騒いでも神の御意からは随分ズレたままで独善感が漂ってしまう。しかしアボジが提唱した絶対性に向き合えば、自ずと霊的無知に向き合わない訳にはいかない。アボジからみ言葉を受ければ、全ての言葉が何の脈絡もなく箇条書きされて詰め込まれ、それらがぶつかり合っているが、実際は全ての御言葉はおもしろいほどに関係しあっている。親としての子供の誕生は、今まで覚えたことのない歓びの感情をもたらしてくれる。実はその感情は性本能に関与する神霊の創造心情から来ており、そうであればその時の歓びや不安の感情の些細な一つであっても等閑にせずに全て魂に刻んでほしい。その感情の中に神霊と分かち合え共感もできて一つになれる、創造意志への新たな扉が用意されている。そして、ここが重要なのだが、突き動かされる性的交わりへの衝動にも、我が子と言える地上的実体の創造はなくとも、同じように私の新たな分身だと言える霊的関係性の創造動機が隠れている。だから闇雲に的を射るような衝動任せであってはならないし、また一人の相対にのみ許された行為だと戒律の中に頑なに囚われての衝動であっても創造意志はそこにない。もちろん別の相手と行為を持ってもいいんだという話では毛頭ない。性に関心を持ったり表現しようとするとき、恥ずかしさ故に触れたくないのと、余りにも尊いから尊厳の想いから簡単には触れたくないのとでは天地の差があり、前者は堕落性であり後者は神性だ。絶対性の実体表象として立たれているのが御父母様がどうかはわからない。しかしアボジが未だその途上にあると語られたことは、先輩食口から聞いたことがある。人類が真の父母によって堕落圏を脱したことは事実だ。そしてその勝利圏のために力不足であったとしても祝福家庭が貢献したことも事実だろう。しかし、本来の人類としての成長発展は堕落圏を超えて出発したばかりだ。霊的無知をどう克服していくか、絶対性の在り方をどう人類に示していけるかという摂理的使命を、先天の摂理と同じように祝福家庭が牽引していくのかどうかは疑問だ。私の感覚からとしか言えないが、堕落の極み、淫乱の極みにいる者達の中に、意外とその使命を認識している者がいるかも知れない。食口が聞く耳を持つかどうかは別にして、極と極は認識の壁一枚で隣合わせている。
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