2023年6月10日土曜日

逍遥から本殿に向かって 11.

エバは神のように目が開けると思い行いに至った。そしてエバはアダムにもそのように誘惑しアダムも行いに至った。時ならぬ時にということだが、何を待てば判断を間違えなかったのかと問うと、それは成長して良心がその判断をすべきだったのが良心が霊肉を主管する前にサタンが主管してしまったということになる。神様を内在すべきがサタンを内在させてしまった。祝福摂理が正しいのであれば、人類全てがサタンの血統だった状態からその牙城は崩れていき、神の血統圏がジワジワと広がっているということだ。しかしその状態をサタンの血統の様相と神の血統圏の様相が目に見えて異なっていると捉えるとしたら、それは祝福摂理を唯物的というか地上的な事としてのみ理解しようとしていて、霊的な事実に目を向けていない。同じように祝福子女(御父母様であれ祝福家庭であれ)に対する固定的なイメージ(内的イメージも含めて)は、勝手に公序良俗的なイメージを抱いて判断してしまい、同じく霊的事実を無視している。宗教というか信仰の恐ろしいところはそういう思い込みにあって、堕落の固定的イメージを持ち、祝福や祝福子女のあるべきイメージを持ち、霊界についても神様やサタンについても固定的イメージを崩せないでいることだ。堕落は性と関係性があるのは間違いないが、復帰も性と関係しており個性完成も性と関係しているのであって、であるのに性そのものに対する穿った感情、堕落的感情を手放さない限り、絶対の概念は永遠に受け取ることが出来ない。私が社会性を否定し、道徳観を否定しているかのように見られるとするならそれも望むところだ。否定しているのではなく超える位相の話をしている。宗教の本質はそういった地上の囚われに左右されない。さらにその宗教を超えようとするのがアボジの願いであったはずだ。食口は教えられてきたイメージを先ずぶっ壊す必要がある。全てのイメージを壊して、み言葉によって今の時代圏に相応しいイメージを構築する。勿論その作り上げるイメージもまた、将来的には壊されるものだとしてもだ。真の父母に接ぎ木され、戴いた神の分霊は時代を超えて繁栄する、或いは創造する力を備えていて、その力は常に神様から溢れんばかりに投入されている。それをただ信じるのではなく、食口にはその霊的な迫力を実感してほしい。それを実感できるのは絶対にある。

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