2023年6月3日土曜日

逍遥から本殿に向かって 5.

 自由と責任は表裏の関係であり、自由のない責任はないし責任のない自由もない。さらに自由度がより増せば責任度合いもより増すというのもその通りだ。私達は絶対愛という言葉を提示されている。私達は絶対愛を立てるという驚嘆すべき責任度合いを負っているが、ということはそれだけの自由度を増す必要性が私達にあるということだ。絶対愛と絶対の関係性とは何だろうか。あるいは敢えて関係性のない二つの言葉だろうか。私は絶対なくして絶対愛は到達できないと思っている。だから私は、先ず絶対の概念を得て絶対愛に到達できる、という仮定を立てる。愛とは創造意志だ。神様にとって愛すること即ち創造することだ。与えれば与えるほど愛は深まるように、創造すればするほど心情は深まる。創造は別に形を作ることに拘らず、いやそれ以上に創造とは関係性の創造であって心情創造という造語を用いてもいい。親の愛、夫婦の愛、子女の愛、兄弟愛、更には万物への愛、私達の中にそれなりの基準で備わっている諸々の愛は、全ては神様の、更には数柱の神霊達の、そして歴史を通した人類の創造意志のお蔭で備わっている。しかし私達の人生の意味は既に開拓された愛に留まるのではなく新たな愛、すなわち新たな創造意志への挑戦だということができる。人類が肉体を持って意志する創造の極みは性にある。だから人類の性への果敢な試みが為されるのも理解できる訳だが、私達祝福家庭の試みとしての創造意志は、人間の本能と魂だけに囚われることのない様々な霊的観点から性の観を立てることにある。私達はかつて歴史上なかった言葉、絶対をそれでこそ見通す可能性を得る。御言葉は、霊人体の繁殖は地上の繁殖によって為されると教えている。その意味は当然のこと霊人体の繁殖も性が関わっているということだ。そして子を妊娠しないまでも性的関係がお互いの霊人体への影響を及ぼすこともわかっている。アボジの絶対と本体論はまさしく霊に関わる性をどう見通すかという、新しい性の見方(性観)の教育だ。

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