2023年6月11日日曜日

逍遥から本殿に向かって 12.

皆さんが男女関係によって愛し合ったならば、愛したそれ自体において、男性の凸と女性の凹は、何が変わるのでしょうか。それ自体は同じですが、既に変わっているのです。-『平和の主人、血統の主人』より

愛し合ったことによって既に変わっている。目に見えない何か、自分の肉体の背後の関係性を変える何かが変わる。エバがアダムを誘惑して関係を持った時、アダムにエバの、既に変わってしまった血統の背後関係が投入されてアダムもまたサタンの血統圏に堕ちてしまった。普通に考えて、複数の関係性を持てばそれぞれその影響を受けるので、その影響はどれ程のものかということになる。イエス様が生涯そういう関係を持たなかったかどうか、持たなかったと信じたい気持ちはわかるが、おそらく私はあって当然だと思っている。アボジがまさにそうであるように、、。アボジの行動は、アボジならではの神の血統の伝播だったのかも知れないし、真の父母として立つ為に自分にない霊的素質を受け取る為の方法だったのかも知れない。私は両方の動機があってのことだと思っているが、そこを深堀するのは私の立場にはない。わかっているのは堕落に性が関係しているのであれば、復帰にも性が関係せざるを得ないということ。私達はこれをしてはいけない、あれをしてはいけないという縛りの発想から行動を起こそうとするが、それは縛りや枷がない自由に任せてしまえば収集のつかない責任を負うことになると根底で思っていて、それは良心が自分には正しく働かない、良心の働きより悪への指向や衝動が勝っていると思うのと同義だ。確かに多くの者達は良心がどれほど権威があり、悪に向かおうとする時の良心による負債感がどれほど強烈に働くかの経験がない。祝福家庭がその自覚や経験なくしてどうして人類に良心革命ができるだろうか。性に対しても全く同じで、信仰という縛りで未だに見ており、良心に問い従う接し方とは雲泥の差がある。人はそう簡単には変わらない。しかし地球、そして天宙全体は良心作用、すなわち良心として神霊が個々に内在する天宙的運動は増すばかりだ。縛りと枷に封じ込められた私という存在が、その縛りと枷を打ち破ると意志もしなければ、正しく良心は働かない。良心作用が自ずと増すようになると思っていたら大間違いだ。その覚悟と決意が必要なのに、縛りと枷に慣れすぎてその意志すら失ってしまったとしたら、それは神様にとってどれほど悲劇だろうか。先の者が後になり後の者が先になるという聖句は食口こそ噛みしめるべき聖句だ。たとえ信仰によるとしても、その安寧の位置から離れないのは自己中心のサタンの在り様そのものだ。

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