2023年6月8日木曜日

逍遥から本殿に向かって 8.

 後天時代は道徳観も善悪観も先天のそれとは異なっているし、その違いは時が進むにつれて更に差は広がっていくだろう。子孫繁栄という創造意志は性が当然関わるのであり、創造は夜の神様の分野であれば性も本来は夜の神様の領域だ。性の領域では地上の道徳観であるとか社会性は通じない。不倫や淫乱が表沙汰されて、教育者も教会関係者も当然のように批判非難はしているけれども、恐らく非難されるようなことを誰だって少なからず望んでいると私は信じる。私に言わせれば性は道徳性社会性を充てることが出来ない、とても人には言えない奔放で淫らであって混沌そのものが性だ。性を表沙汰すること自体が批判非難の対象であっても、その在り方に対してはとやかく言うには当たらないし口を閉ざすべきだ。不倫は悪だというけれども、社会性を宛がうから不倫になるのであって、結婚が形だけでそこに夫婦の愛は培われていない場合が殆どで、形だけの夫婦に縛りを押し付けるのが、愛である神様の願いだろうかと私は疑問に思う。もちろん不倫は善だというつもりは全くない。言いたいことは、教会でも愛という言葉はよく使うしみ言葉にも愛という言葉は限りなく使われているけれども、愛の形骸化は愛とは言えないし、大体愛の意味も知らず愛してもいないのに愛という言葉をみだりに口にすべきではない。同じように性に対しても恥ずかしいとかイヤらしいとか不道徳の感情レッテルがしっかり貼られていて、そんな洗脳人間に絶対など理解もできないし、理解しようともしていない。レイカン商法だとか多額献金だとか、社会性を逸脱するほどの信仰があるなら、愛の何たるか、性の何たるかを社会性を逸脱するほどに求めて見ようという食口はいないのだろうか。日本の同調圧力に屈すまいと決意していても教会の同調圧力に屈してしまうということは、結局自分の良心が立っていないということにはならないだろうか。自分の歩みは霊的に生きているかどうかを自分に問うてほしい。先ず霊的に生きる道を歩み始めて、それでこそみ言葉も相対できるし、絶対に必要不可欠な霊的無知克服に臨むことができる。

0 件のコメント: