2023年6月4日日曜日

逍遥から本殿に向かって 6.

本来であれば人間は興奮し、そして絶頂に達して頂きの彼方、すなわち彼岸を観ることができる。しかし人間が霊的無知に陥ったために、肉体の興奮から霊界に参入し霊界を見届ける感性を失っている。要するに性に何らかの創造意志が働いていることは理解できるとしても、頂きに立ちながら彼岸を見通せない為に創造意志の正体は掴めない。絶対の譲れない在り方として、それは霊界を見通せる性であることだ。しかし何度も言及しているように、地上で視界が見通せるように同じ視覚で霊界が見通せると信じている唯物的霊界観が食口間にも罷り通っているが、そんな地上的次元世界が霊界であるはずがない。少なくとも叡智や心情の視覚化可能な世界くらいのことは言及してほしい。霊界に行けば地上で慣れ親しんで獲得した、或いは染み付いた思考や感情が霊人体として実体化している。横道にそれたが、絶頂の彼方を見通せる性であるためには、すなわち性本能に働いている創造意志としての神霊への尊厳感情を先ず自分のものとするところから出発し、その上で一つになって師であり友ともなるその神霊を私の霊的屋台骨として一つの霊的柱とすれば、創造意志溢れる神界への翼を用意できる。性の交わりは私一人で為せるものではなく、そうなるとお互いがその基準に立つべく切磋琢磨する必要がある。そんな性の交わりは既に悦楽の欲を超えていて、性がまさしく聖と同一となる。夫婦の交わりが天地創造に関与した神霊達の交わりの基準に届くようになる。霊的無知の無知である食口ですら天地創造が神様が神の杖でかき回しながら創造したなどと信じてはいないだろう。創造は神霊達の相対的関係、すなわち陰陽の交わりで創造過程の段階を発展させてきたことは明らかだ。

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