2026年1月28日水曜日
今日の想い 1448
2026年1月27日火曜日
今日の想い 1447
春を正しく迎えることができるのは、冬の間に種まきする種を用意できたかどうかだ。新たな種も準備せずに春を迎えても、陽気に酔うばかりで秋の実りを収穫することは到底できない。食口にとっては今がまさしく極寒の冬であって、にもかかわらず時間が経過すれば当然のように春が来て、天からマナの恩恵でも降ってくるかのように期待している。御目出度いとしか言いようがない。世間や政府を責めて愚痴っていても神様すら聞く耳持たずだろうし意味がない。酒で酔って逃げているようなものだ。知恵ある食口は切実なこの冬の最中に何を用意するかを祈り考えている。もはやアベルからの指示などあり得ないし、あったとしても的外れなものでしかないだろう。全てを自分でどうするかを決める。どう信仰を立てるか、どう生活するか、親なら子女をどう教育するか、摂理をどう捉えどう関係性を持つか、すべて自分でどうするかを決めざるを得ない。しかしこれこそが天の祝福であり、日本食口にとっては自我の確立という真の個性完成への出発となる。しかし現実問題として解散命令が下った時、先ず多くの教会職員の先行きをどうするかだろう。世間の受け入れ具合にもよるが、できるなら日本から一端出て海外で歩んで欲しい。国によるだろうけれども、現地食口に汗を流してもらって宗教迫害によるビザ取得の可能性を模索すべく交渉してもらうべきだ。今回の選挙で与党が過半数を取り、高市政権が盤石なものとなると教会に対して善処する新たな動きも出るという者もいるが、日本社会はそれほど柔軟だとは思えない。楽観的観測に乗るのではなくて、何事も厳しめに捉えて先手先手と駒を進めるべきだ。家族の生命をかけて脱北するほどの覚悟を学べば何だってできるはずだ。覚悟と意志が道を開く。
今日の想い 1446
日本が韓国を理解できないように、おそらく食口であってもその実態を知ることになると、本部の教会の中心で起こっていることは受け入れられないだろう。解散命令がでるほどに追い詰めて責めて責められて献金してきたのに、その献金がどう消費されてきたか。最悪、摂理として広げた事業が回転せず、そのマイナス分の維持費に使われてきたぐらいにしか理解していないだろう。韓国人の魂は日本人のそれとはまったく異なっている。人生の捉え方から異なっている。学ぶみ言葉は同じでも、その行動は真逆だったりする。簡単に述べるなら、自我の明確な韓国人と自我の曖昧な日本人ということになる。公的であろうが私的であろうが、自分の意見や意志を明確に示し、それにそって行動する韓国人に対して、明確な意見も意志も曖昧で、声の大きな者などの従う誰かを常に探していて、それに合わせて行動する日本人という具合だ。韓国人は食口であっても、責任ある位置にあればそれに見合う環境や報酬を得るのは当然で、それがないなら責任を全うできないとも思っているはずだ。安っぽい出で立ちで、相手に合わせる趣味の話もできずにビジネス交渉もできないし、トップ外交もできない。日本の食口から見ればただの私欲で分捕っているようにしか見えないが、彼等には彼等の言い分がある。実際己の欲を強くし、それを動機にして這いつくばってでも成り上がってきた多くの僑胞達が日本にも世界にもいる。問題は、余りにも多額のマネーが随時日本から送られてきたことだ。また自分で主管したこともない額を容易に手にすることになったことだ。自分で汗水垂らして稼いだお金と、転がり込んだお金とは意味合いがまるっきり異なる。彼等にとって日本からの献金は悪銭でしかなく、当然身に付かず流れてしまう。私達は万物主管という原理のみ言葉がありながら、お金をモノとしてしか見ていなかった。日本で集めたお金は、命と愛を引き換えに我が子を取り戻したように受け取ったお金だったのかどうか。子供を差し出すように献金し送金したのかどうか。その想いあればどう使われているかに関心が行くのは当然だし、口を挟むなと言われれば止めることもあり得ただろう。以前にも記したことがあるが、韓国の問題も日本の解散命令問題も、万物の反乱としての一面は確実にある。万物主管に対して、本質に近い概念を得た食口に会ったことは一度もない。
2026年1月25日日曜日
今日の想い 1445
ロシアによるウクライナ侵攻から始まったウクライナ戦争。この2024年2月24日以前と以降とでは何が違うか。世界秩序に於いて根本的に変わってしまったことがある。以前はドル基軸世界であったものがウクライナ戦争以降、正確にはバイデンによってロシアの外貨口座を凍結して以降、BRICKSを始めとする多くの国はドルへの信頼を失いそれぞれの中央銀行は買い続けていたドル債権を売却し金を購入するようになった。金が世界通貨になり得るかどうかは別として、日毎に信用を失いつつあるドルに代わる取り敢えずの資産として金へと向かっていることは確実だ。今西側諸国はどの国も借金漬けだ。アメリカの借金だけでも38兆ドルに昇る。借金で回していた国家経済が限界に来ていたのに、極めつけがロシア外貨口座の凍結で完全にドルの信頼を失ってしまった。トランプ政権は前政権が仕出かしたこの事実をよくわかっている。だからトランプは何とかドル覇権を維持しよう回復しようと躍起になり、突拍子もないように見える政策をどんどん進めている。各国への関税、何千万ドルものみかじめ料、そしてベネズエラへの急襲とグリーンランド領の分捕りへと続く。ドル担保にできるエネルギー源の確保がないと通貨覇権は奪われてしまうからだ。金は既に5000ドル/OZの大台に届こうとしている。ドルで価値判断をすることに慣れてきたから金が高くなったように見えるけれども、実際は量る単位のドルの価値がなくなったものだから金が高くなったように見えるだけだ。金保有者は金をいつ売って利益確定しようかと躍起になっているが、それ自体がドルを価値単位にしていることの判断に他ならない。今の中央銀行は確保した金をドルに換えようとは思っていない。米財務長官は2027年に入ったら2兆ドルのステーブルコイン、所謂デジタル通貨の発行を約束している。金融緩和策で刷り上げ過ぎた通貨紙幣によるインフレが止まらないが、実は政府から見るとインフレで借金が薄められていく。インフレ率が高くなればなるほど国の借金は帳消しにはならずとも薄められて楽になる。デジタル通貨発行は新たな国債を担保にする為に形を変えた金融緩和策だ。トランプ政権はドル覇権を維持するために必死だ。
今日の想い 1444
2026年1月20日火曜日
神楽を見る(その二)
「八衢(やちまた)」という演目だった。神楽は子供の頃から何度も見に行っているが、この演目は耳に新しかった。興奮を覚えるには悪を成敗する鬼退治ものが手っ取り早く、神話の筋など知らなくても楽しめる。秋祭りの神楽は外が白々するまで夜通し舞い続けるが、最初の方は緩やかに舞う神々だけが登場するので子供には退屈だ。しかしやしろ内の電灯が消されて外の屋台からもれる明かりを頼りに太鼓のバチさばきが激しさを増すと、幕合いから煙火が焚かれ煙に包まれて鬼が登場する。興奮のボルテージもあがり、激しく舞う衣装の帷子が跳ね上がって観客に触れるほどになる。神楽村は舞台を見るかたちだから、目と鼻の先で舞うほどの体験は無理だが、それでも四拍子八拍子の太鼓を体に響かせながら舞を見れば誰でも高揚するはずだ。受け売りだけれども八衢は天孫降臨の路程で現れる眷属、西洋風に言えば大天使だと思うがこの天からの道を護る鼻高の猿田彦神(さるたひこのかみ)と降臨を導く天宇津女命(あまつうずめのみこと)との遣り取りを演目にしている。鬼も大蛇も出なかったが、この猿田彦神が結構な暴れ者で見応えはあった。娘も初めての神楽体験で、終わるや否や正月気分を味わったと口にして満足そうだし、本人の高揚した顔を見ると往復二時間費やした甲斐はあった。会場を出るとあれほど晴れ渡っていた空は灰色に覆われ、降雪は激しさを増し視界は数メートル。車をすっぽり覆った雪を腕で払い落し、なんとか運転に支障がないよう処置して帰途を急いだ。娘はやはり雪女だ。
2026年1月19日月曜日
神楽を見る(その一)
三次に向かう国道375号線から横道にそれ、県道を北西に取ると景色は一変する。昨晩から降り始めた雪で急峻な山壁に林立する木々は覆われ、山合に差し込む陽光に木々から落ちる雪が舞い上がって光輝いている。時折現れる空の青が背景となると、沈んだ水墨画の世界が一気に映えてくる。娘は雪女だ。この時期に日本に帰省すると必ずと言っていいほど雪が降る。それも交通を阻むほどの降りようになり予定を変えざるを得なくなる。実は父の、娘にすれば祖父の見舞いに合わせて訪日を早めたのだが、天候のせいもあって父の臨終には間に合わなかった。葬儀は年内にと急いだせいで葬儀にも間に合わなくて元日の夕にやっと到着した。娘にすれば祖母だが一人きりとなった離れの家に手を合わせに向かった。遠路はるばる来たのだからと、親なりに気を使い、ついでにその足で安芸高田まで車を走らせた。安芸高田には神楽村があって秋祭りを逃しても演舞を見ることができる。三が日でも開いていることを確認して往復二時間のドライブだ。平野部から山間の奥深くなる道につれ雪の降りようは増してきた。しかし断続的で雪雲も千切れ千切れで、青空なのに雪が舞っているという状態だ。雪景色は見るには美しい。娘も日常の会話を遣り取りしているうちは可愛さもある。しかし内面に少しでも触れようものなら雪女ばりに冷たい言葉を吐いてくる。そういつまでも若くないので少しは角が取れただろうか、どうだろうか、と思っているうちに目的地に着いた。開演にはまだ時間があるので展示物やら神楽の歴史やらに目を通して時間を潰した。屋内といってもドアはほぼ開けっ放し状態で、実はその時妻は身体を冷やしたようで後々感染症で入院することになる。
2026年1月17日土曜日
今日の想い 1443
日本は役所に行っても、わからないところあれば懇切丁寧に教えてくれる。葬儀も行ったことはあってもやったことはないのでどうなるものかと不安だったが、葬儀社が一から十まで親切に教えてくれて選択肢を出してくれて、全てははいかいいえで応えれば事足り、まさか喪主の挨拶の定例文まであって読み上げるだけでいいとは思わなかった。ある程度の費用さえ出せば至れり尽くせりだ。その分自由度は失せていて、私がどうしたいかではなく世間一般ではどうなのかを基準にして私を合わせていく必要がある。アメリカの役所はそれはそれは冷たい。建物も冷たいが人も冷たい。アメリカに行って先ず運転免許証を取る為に免許センターに行くのだが、こいつは英語がわからないとなると扱いが雑で罪人に対するのと変わらないなと思った。しかし更新の為に何度か行ってみると、英語がわかろうがわかるまいが関係なく丁寧に扱われたことは一度もない。日本人が犯しやすい過ちだが頭を下げて下手に出ると相手は横柄な態度を取ってくる。ふんぞり返るくらいな姿勢で大きな声で話すとそれだけで向こうの態度は変わってくる。体格がない分多少にも体重多めの方が確実にいい。役所だろうが裁判所だろうが、ビジネスの交渉事であっても主張した者勝ちが罷り通っている社会だ。しかし我儘を通せるのではなく主張するなら納得させる必要はある。すべてがこちら次第な分自由度は高くなる。世間一般の基準などないし、だから自分を合わせるのではなく先ず自分の思うところを立てる、信念を立ててこそ前進できる。どちらがいいとは一概には言えないが、日本は言いたいことが言える社会ではないだろう。自分を合わせる社会なのか自分に合わす社会なのか、合わせることに長けた日本人が世界に羽ばたけば、どこでも重宝がられるし確実に角が取れて平和な世界になっていく。
2026年1月16日金曜日
今日の想い 1442
私は御父母様を知って祝福を受けている、神様も霊界も知ってみ旨に歩んでいる、それが食口の誇りとしての柱になっている。それでこの地上で為すべきことはその柱を中心として副柱を立てたり垂木を渡して行けば内的な神殿を築くことができる。原理を知りみ旨に歩んでいけばいいだけ?の人生でその途上で最後を迎えればいい。もちろん食口それぞれで違うだろうが、敢えて括ればそんなところか。そしてそれなりの喜ばしい霊界で居を構えて永遠に生きる。この世の堕落世界は復帰されるべきだが、本質的には神の側にある私とは関係がないし、だから国から断罪されようが社会から疎まれようがある意味どうだっていい。冷ややかに見ればそういう感じだ。果たしてこれが愛に生きる私、心情を相続した私だと言えるだろうか。どこか割り切っている人生、どこか打算的な信仰のように思えて、本当にこれでいいのかと思うのは私だけだろうか。今の社会に対する教会の状況、それに対する食口の状況、アボジが御存命ならどんな言葉を私達に差し出されるのだろうか。もちろん御母様がおられる。しかし御母様の言葉は殆ど伝わってこない。それは食口に任せるところが多くてそうなのか、下の方まで伝わりきらないのかはわからない。今の収監中の身であられる御母様であれば尚更だろう。確かに分派は分派でおかしいのはわかる。しかし教会もどうみてもおかしいだろう。一世はどんどん霊界に送られている。霊界の中に食口の階層があってそこに集って統一村を作っているなら、この伸るか反るかの地上の緊急事態に何らかの働きかけがあっても良さそうなものだが、霊界に旅立ってみるとイメージと大きく異なっていて食口は右往左往なのか、上往下往なのか訳のわからない状態にあるのかも知れない。地上に於いて教会としての明確な見解が見えてこないところをみると、少なくとも天国とか楽園とかで一つになって生活している状況にはないだろう。
2026年1月15日木曜日
今日の想い 1441
献身して人生を捧げてきた一世の多くは、人生を捧げると同時に自らの生命をも捧げることにも躊躇しなかっただろう。み言葉をどの程度理解していたかどうかに関わらず、成約信仰を持つにあたっては初恋にも似た熱情が燃えていた。独生女信仰を持つ食口に、教会初期の熱情的衝動に似た想いを持っているのかどうか、御母様御母様と祈祷する多くは二世食口だと思うが、今の御母様の状況に対して一世達の初期の切実な想いがあるだろうか。独生女信仰に移行(?)できている諸先輩の多くは、論理と言い訳だけは返す言葉もでないほど長けてはいるが、彼等こそ熱い想いは感じられない。少なくとも私が接する一世に関してはそうだ。しかし摂理を牽引していくのは二世達だし、御母様も二世に期待をかけておられていて一世に対してそれはない。だから一世が何を言おうが放って於けばいいだけのことなのだが、老いて力もないのに前面に出ようとして自説を広めるのは摂理を歪める。一世は御母様と二世に対して申し訳ない一心の想いのみであって、二世に対して上から目線でどうこう語る内容も立場もない。一世は摂理の願いに対して大失敗した自覚をしっかり持つべきだろう。解散問題も御母様の収監もその原因は一世のしでかしたことにあるわけで、二世でもなければまして御母様でもない。御母様に対して進言の一つもできなかったのは、御母様に対する畏怖の念からではなく、後でとやかく言われたくないという無責任から進言を避けてきた。御母様を親とは見ず役所の首長ぐらいにしか思ってないから、責められ怒られるかもしれないことに敢えて口出ししようとはしない。食口の多くは神輿担ぎでイエスマンだし御父母様の前で言葉を述べるとなるとおだて持ち上げる言葉しか並べない。一世達が御母様を裸の王様に仕立て上げてしまった。
2026年1月14日水曜日
今日の想い 1440
壇上で語る牧会者はみ言葉を交えながら、溢れんばかりの希望的な言葉の羅列に余念がない。それは恰もトンネルを抜け出せば眩いばかりの天の恩賜が降り注ぎ、試練の期間が悪夢のように消え失せる、そんな期待を持たせてしまう。私達は何度も何度も、幾重にも幾重にも、修練会の中で、また聖日礼拝で、いろんな教会の催しにおいて語られる希望的言葉で現実に対してきた。いや対してきたのではなく、希望的思考や感情という教会の大気の中で安穏としてきた。食口はそんな教会説教を受け取ると、楽天的姿勢や態度を無意識に取ってしまう。楽天的は建設的とは異なる。楽天的は夢想状態で結果責任が曖昧であるのに対し、建設的であれば地に足をつけていて結果に対する責任感情をしっかり引き受けている。アボジから多くの摂理的案件が示されながら、どれほどの結果を残して来ただろうか。何をやるにしても地に足がついておらず、結果を残した日本の万物復帰以外どこも尻すぼみで、いつしか消え失せてしまっている。もし教会がこの世に対してアベルだとするなら、カインをサタン呼ばわりするものの学ぼうとしなかった過去をどう反省するのだろうか。アベルが独走すべく独善的な姿勢で周囲を見ずして何の復帰摂理だろうか。今回の一連の対応については日本の教会の独善性がよく表れていて、聞く耳持たずだ。せめて反省する姿勢の真似事だけでも示せていれば、何らかの生き延びる道が残されていたかもと思うと、残念でならない。教会解散は組織の死刑宣告だというこの重大さがわかっていない。教会が御母様を独生女として立てる第二の信仰に移行するなら、先ず楽天的な無責任性とカイン無視の独善性から改革して、摂理に対して結果を残せる教会にして欲しかった。
2026年1月12日月曜日
今日の想い 1439
体がだるい。どうやら風邪をひいたらしい。インフルなのだろうか。ワクチンは打ったもののこの程度なのはワクチンが効いているということだろうか。微熱があったが今計るとほぼ平熱だ。しかしだるい。重くてだるい。うつしてはまずいので母を訪ねることはしばらく避けたい。霊前に飾られていた花を持って帰って飾っていたが、それらも頸を折ってしなだれてしまった。だるい体を持ち上げ終わった花を始末した。それにしても妻が入院していて幸いだった。幸いだというのもおかしいが、同じ部屋に居れば必ずうつってしまう。今は私はここでひとり、妻は病室でひとり、そして母もはずれの別棟でひとりだ。暫くひとりだった父は重い体から抜け出て、迷うことなく居るべきところに向かって旅立っただろうか。それとも自らの生涯を振り返りながら生きたことの意味を霊に刻み込む期間だろうか。父は法事にはナマンダブナマンダブと口にはしていたものの、死んだら終わりで極楽浄土などないと言い放っていた。要するに信仰は生きている者の慰めであり供養であって、死者は死者で勝手に消えてなくなるものと信じていた。ナマンダブは方便で、殆どの日本人がそうであるように霊を信じない唯物主義だ。父は体を離れても生きている自分を先ず受け入れるところから始めなければならないだろう。浄土真宗は四十九日の苦行の旅は必要なく、阿弥陀如来に即極楽に連れていかれるらしいが、父はそれも信じてはいなかったはずだ。どうもこの体の重さとだるさは父の旅立ちと関係があるように思えてならない。
2026年1月10日土曜日
今日の想い 1438
アボジについても、そして御母様についても様々な論理的解釈は成り立つだろう。しかし人間は感情として納得できる結果ありきの場合が多く、それに合わせて論理を組み立てているので、こうこうこういう理由で御母様の独生女が成り立つと言われても、受け入れない者に対しては意味を為さない。既に何度も触れているように、自分は堕落人間として生まれたという自覚があるにもかかわらず、堕落した位置(霊的無知)でこの御方は罪のない御方なのかどうかの判断がどうしてできるのか不思議だ。堕落世界の出である第一の御母様候補、第二の御母様候補とアボジは関係を持たれたからアボジは罪の根を受けてしまった等という説明は、堕落と罪に対して極めて現実的であり戒めによる血筋の話でしかない。御父様の使命としての路程でありながら、結果として失敗したにも関わらずそれを堕落だと言ってのける神経がわからない。戒めという教条で堕落だ復帰だと決められるならこんな簡単で単純な話はないだろう。現実的話をするなら罪ある親から罪のないイエス様が生まれアボジが生まれたように、御母様ですら地球外生命からやってこられたのではない。正直な話御母様がアボジの罪のあるなしを、同じ親から生まれた他の兄弟に罪があるならアボジに然りだという説明も、肉体生命による血筋の話で霊的血統の話ではない。私は心情こそが本質的な意味での霊的ということであり、エバと天使長との関係性で神様の心情を蹂躙して断ったから堕ちたのであり、アダムも単純にエバと交わったという話ではなく、心情蹂躙に加わってしまい心情を断ったから同じように堕ちてしまった。そして神の主管の及ばない、すなわち心情の及ばない生命圏外へと逃げてしまった。
今日の想い 1437
今日の想い 1436
父は生前、「なんもええことはない はように死んだほうがええ」と口にするようになった。母から小言を言われた時もそう言うし、体に力が入らず立ち上がれないときもそう言うし、トイレに間に合わず粗相をした時もそう毒づいていた。そう楽に死ねるもんでもないでと返すと苦笑いで応酬していた。子供のような父で特に家の中では好き放題の言いようで、父がいない今でもどう返していいものか考えている。父の臨終に立ち会ったし、葬儀も行い骨も拾った。父の死は明らかなのに、しかしそれでも未だにこの世から父がいなくなった実感はない。老後に構えた家の玄関を開けて、居間のドアに付いているガラス小窓から前と同じように父が見えると思っているし、オンラインの囲碁のやり方を教えて結構のめり込んでいたが、いらぬところを押してパソコンがフリーズすると必ず連絡してきていたのだが、未だにその電話を待っている私がいる。父の死を受け入れるも何も、私のどこかで死んではいないと思っていて感情がどうなのかという段階には至っていないらしい。確かに通夜や葬儀の手配、喪主代理としての挨拶、香典返しや更には法要の手配もあったり、役所での手続きやらもあり体が忙しく心は置き去りのままなのはそうだろう。そうなると四十九日の法要が終わって、やっと自分の内面に父の死が刻まれるのだろうか。母は今のところ元気ではあるが、なんせ92なのでそう遠くはないはずだし、妻は透析患者で最近滅法弱くなってきているし、次から次へと忙しい日々が待っていると思うと、ひと段落する頃には私自身が参ってしまってあっさり死の門を潜るのかもしれない。若い頃に悩み抜いたり、思慮もなく行動したり、み旨だ摂理だと走り回った時代がなかったかのようすっぽり抜けて、どう介護するかどう送るかの老後が自分の人生の大半のように思えてしまう。
2026年1月6日火曜日
今日の想い 1435
「夕日がとてもきれいだね 野垂れ死ぬかも知れないね」...NHK朝ドラばけばけの主題歌、笑ったり転んだりの歌詞の一部だ。この歌を聞くたびにアボジの例のあのお話を思い出す。既に記したことはあるが、「平和の主人、血統の主人」の中の例の話だ。障害のあるユクムソク夫婦の話だ。十一月に雪が降り始める前にアボジの故郷に訪ねてきて、昼食を準備して松の木陰の、夕焼けのとても暖かい所で二人で食事を取りながら、二人で寄り添って座り、喜びながら眠りについて、そのまま逝った...という話だ。このお話は決して不幸な夫婦の、かわいそうな死に際の話ではない。前置きに目を通すと、障害者の男性を夫に迎えたとしても一緒に暮らせないとなれば、天国には行けず相対がいないまま死ねば消えてなくなり、障害があったとしても、結婚して一緒に楽しく暮らせば生活において天の国がすべて待遇してくれる、、という、絶対愛絶対性に繋がる夫婦愛の話だ。はたから見ればこの夫婦は野垂れ死んだわけだけれども、彼等は夕焼けの暖かい最高のシチュエーションで寄り添い喜びの中で人生を閉じた、うらやましいほどの天の保護下にあった。私はこのみ言葉のこの一節に目を通すたびに、霊的な内容に価値を見出すことに疎く、この世的肉的なやがては消え去る価値観に毒されている、それこそが堕落性として私の中に居座るサタンだと再認識させられ改めさせられる。父の葬儀がやっと終わったと、いくらか安堵に浸ろうと思った途端、今度は相対が肺炎を患い入院するはめになった。ここ数年は透析で安定していたが、年なのか寒さのせいなのか感染に応戦できず弱くはなっていたということだろう。波乱の幕締めからの波乱の幕開けだ。私の人生には、大変なとき常にその時々の励ましの歌が寄り添い、そのメロディーや歌詞が背後で流れている。息子が大病を患った時もそうだった。相対が長時間の手術に臨んだ時もそうだった。そして昨年の暮れからは「笑ったり転んだり」のメロディーが流れて寄り添ってくれている。私は天の保護下にあって、消え去る孤独な存在ではない。
2026年1月5日月曜日
今日の想い 1434
今日の想い 1433
押し迫った31日に父の葬儀を執り行った。29日夕に息を引き取り、葬儀屋に早速に連絡を入れ30日に通夜をしての31日、年内に済ませた方がいいという頭があったものだから抜かりのないよう段取りすることに意識を集中させた。だから通夜でも葬儀の時も、涙を流し亡骸に話しかけるような余裕はなかった。今は滞りなく終わらせたことの安堵に浸っているが、世間の正月気分でも引いてしまえば改めて父を送ったことへの内面の総括を迫られるだろう。父は幼少の頃、囲炉裏に転がり落ちて左足を大火傷している。子供には左の素足を見せることはなかったが、変形しているのはわかるし不自然な歩き方をしていた。そんな幼少期から出発した父の人生は、難儀なこと多かりし人生だったのは確かだ。勿論私は高校を卒業すると同時に教会に献身し家を飛び出したものだから、長男である私自身が父のもっとも頭の痛かった部分であることはよくわかっている。常に飄々として自然体で生きてきた父だから多くの困難を遣り過ごしてこれた。父の口癖は「なるようにしかならん」で、何かあると常にそう口にしてきた。Let it beが父の人生哲学だった。海外生活が長いし一度も経験のない実質上の喪主だったが、妹夫婦や葬儀社の計らいで何とかこなすことができた。葬儀の後もいろんな手続きが残ってはいるが、父に倣ってLet it beで乗り越えていきたい。