2014年5月30日金曜日

今日の想い 749

私達は新たな歴史創造を為している。その認識が言葉だけではなく意識的に歩みの中に浸透されなければならない。創造は抽象的な観念として掴みどころのない雲のような創造気分に浸ることではなく、具体的であり実体化できなければ創造とは言えないだろう。しかしビジネスに関して言えば、既にこの世に存在しているビジネス内容を学んで模倣することが創造だと言えるだろうか。この世のシステムや発想に倣って結果を残すとしても、果たしてそれは創造だろうか。扱う万物それ自体は堕落してはいないからそれでいいとしても、この世のシステムや発想には堕落的なものが既に浸透している。しかもそれらが生活基盤になっているのであり、それを否定しては社会生活は成り立たない。では歴史創造、新しいビジネス創造はどうやって為すのだろうか。正直に言ってわからない。解からなくて当然なのかもしれない。そこに踏み込もうとすれば創造に加担するだけではなく、創造主になろうとすることなのかも知れない。創造主は天の父母様であり、一体となられた真の父母様こそ実体の天の父母様であられるので、御父母様に侍ることで一体となった私を通過して創造が為されるはずだ。侍ることで如何に天の知恵を得て天の御計画を知るのかはこれからの課題だろう。おもしろい時代になってきたとも言えるが、真の父母に侍ることから距離を置いては一寸先も見通せない時代でもある。御父母様の願いとしてのビジネスであっても、ビジネスという外的摂理であればどうしても外に外に意識が向いてしまう。外のこの世の成功者達に追いつけ追い越せとばかりに歩んでいるけれども、本当に外的に立てるべきは、万民が御父母様を侍ることができるようなビジネスシステムを構築することだろう。私が御父母様に侍るのは勿論のこととして、万民が御父母様に侍ることができるよう、ビジネスという受け皿で彼らの精誠を吸い上げることが必要だ。私達のモットーは、「創造主、天の父母様に似た、真の愛を実践する天一国の真の主人になろう!」である。敢えて創造主と文頭に置かれた意味を尋ねることが必要だろう。私が尋ねて返った答は最初に記した言葉だった。私達は新たな歴史創造を為しているのである。霊界の高みに昇られた御父様に侍り、地上に残られた御母様に侍り、歴史時代を超えた位置で新たな歴史創造に加担している。

2014年5月29日木曜日

今日の想い 748

一般的に言われるところの歴史認識などというものは主観的なもので、その主観は決して正しいと言えるものではなく、思い込みの基礎の上に立てられ、観をどう立てるかによって、あると言えばあり、ないと言えばないと言えるような、そんなものだ。歴史的事実は事実だと声高に言うけれども、それは何処までも認識の範疇であって事実ではない。教科書で教えられる、宇宙の成り立ちから始まって、過去にあったとされる全ての記載事項は全て認識であり事実ではない。更に今私が生きている現実に起こっている事柄でさえも事実ではなく認識に過ぎない。何かが蠢いている事だけは事実なのかも知れないが、そこに認識の判断を下すのはそれぞれの観に過ぎない。しかし絶対的であり確実に間違いのない事実として立てられるものがある。それが原理観の上に立って見通される事実であり、原理の核であられる実体み言、真の御父様によって差し出されるものがその事実だ。そうしてその事実だけが霊界で通じる。原理が述べるところの歴史は復帰歴史であり、蕩減復帰摂理の歴史であって、一般に知られる歴史事実と言われるところの歴史内容は原理を知れば知るほどその表情が変わってきて事実内容とは異なってくる。ようするに我々が認識するという行為に、主観による善悪判断が為されているし、そこには当然のこととして主観による感情が混入されてしまうからだ。誤解を恐れずに言うなら、私達の倫理や良心基準から見るならおかしいだろうと言えるような内容が、天にとっては善であったりする。旧約聖書を見るなら一般的良心基準からするなら首を傾げる内容が至るところにある。日本には日本の言い分として歴史認識があり、一方、韓国では日本とは全く異なる言い分が歴史認識としてある。それは認識である以上認識の範疇を超えて事実とはならない。認識は認識であっても、より善なる認識かどうかが問題であって、より善なる認識を天がとり、土台となって次なるステージに展開される。歴史時代はそうだ。しかし歴史時代を超えた新しい歴史創造の時代霊からすればどう見るだろうか。日韓のこの反発を歴史時代の名残と放って置くだろうか。ここDC界隈でも慰安婦像が立つと言うことで、日系と韓国系との亀裂を生んでいるけれども、ここまで反日思想が徹底されると認識は事実の顔になりすます。私が思うに、新しい歴史が日韓の一体化を本当に望んでいるからこそ、この反発が起るのを許しているのかも知れない。というのは、夫婦間の一体化も、お互いが猫を被っていい顔をしている仮面夫婦では一体化はあり得ないのであって、お互いの感情をどこまでもぶつけて、出し尽くして初めて一つになれる道が見出されるからだ。そうなると日韓の関係も本当の一体化を願われて、敢えてこの状況を作り出されているのかも知れない。韓国が父の国、日本が母の国として一体化してこそ世界理想実現への門戸が開かれるからだ。韓国も日本も、父である、母であるという認識など今は全くない。認識がないのにどうして父母として一体化して正分合の合である世界理想実現が為せるだろうか。一体化はすばらしいことだけれども、一体化への道筋は決して絵に描くような生易しいものではないはずだ。幾度と無くぶつかり合い、闘争を超えての一体化だろう。

2014年5月28日水曜日

歴史時代を越える (2)

普通の人間は未来に希望を置くけれども、本ものの統一食口は御父母様に希望を見る。御父母様こそ希望の実体であられ、よって御父母様に如何に侍り一体となるかが私の希望となる。その論理はわかるとしても現実の私は漠然とではあるが、ああしたいこうしたい、ああなりたいこうなりたいというそれなりの希望を未来に置いて生活している。もちろんその希望が私のみ旨にプラスになるはずだと信じての希望であり、そこに堕落的な動機はないと思っている。しかしそれは歴史時代の宗教が必要な時代の在り様であって、歴史時代を超越した新しい歴史創造の在り様ではないだろう。事実、み旨にプラスになる漠然とした希望を未来に置いて歩むことと、私の希望を御父母様に見て御父母様にどこまでも侍り一体となる歩みとは根本的に異なる、と言うか次元が全く異なる話ではないかと思える。明日こうなりたいとか、将来的にこうでありたいとか、それを全く否定しろという話ではなく、御父母様に侍って一体となりたいという希望を先ず立てること、それでこそ現実の未来に置く希望が成立するし、現実の希望が御父母様に侍り一体となる希望の表現として表出する。もし真の父母が現れなかったら、為に生きるだとか犠牲精神で与えつくすだとかの言葉と希望という言葉は相容れない。真の父母が存在しない歴史時代はそうなる。イエス様の死は確かに人類に犠牲精神を喚起したけれども、どれだけ犠牲的生を歩んだとしても真の父母の子女になるという天の血統圏に入ることが出来、神様との一体理想を成し遂げることは何代を経たとしても至らない。それは、イエス様は真の父母になれずに歴史時代は延長されたままになったと言うことだ。歴史時代はその使命を全うして引退し、歴史時代を超越した歴史の創造が始まったという事実。そして希望の実体である真の父母を戴いているという事実。それが御父母様を慕い侍る私と共にあるという現実。未だふらふらしている私であるとしても、私の片足は確実にその事実と現実に足を踏み入れ、この世的希望を超えた希望を捉えている。み言葉を受け入れ、真の父母に侍る統一食口であるけれども、子供こそが希望だと、それは御父様が血統の重要性を語られ、三代圏を語られ、よって子供の祝福が問題であり、この世的な結婚や肉的に不倫な関係を持たないかと神経をすり減らす。しかし御父様はこうも話される。「復帰の第一基準は神様の息子や娘になるだけでなく、子女の位置を経て、夫婦の関係を結び、真の父母となって新しい血族を立てることです。これが人間の創造目的であり、人類歴史の新しい出発基準になります。ですから国や民族、氏族が問題ではありません。また、息子、娘が問題ではありません。」ここで血族を立てると言われながら息子娘が問題ではないと言われるのはどうしてだろうか。明らかに肉的な血族を意味する言葉ではないとは思えないだろうか。私達は霊的な事を信じる一方で余りにも肉的なことに拘っている。もし子供が何らかの問題を起こしたなら、起こしたことよりそれであぶり出される父母としての態度の方が問題だろう。祝福を肉的教条的に捉えていて、子供を裁き自分を裁き、それが祝福自体をも裁いていることになりはしないだろうか。肉的に捉えれば御子女様達さえも問題があると言うことになる。しかし御父母様は真の父母として何の揺らぎもない。祝福家庭として子供に対する親の重荷を下ろせと言っているのではなく、真の父母に侍り一体となり更なる重荷を負え、より全体の位置に立つ父母としての犠牲の祭壇を供えろと言うことだ。子女が祝福を受けてくれて祝福三世を抱かせてくれて、それで三代圏の達成だと喜ぶのであれば、家庭の父母は立つのかも知れないが家庭の父母を犠牲とする氏族父母、さらに国家父母、世界父母が立つ為には誰がどうやって犠牲の祭壇を供えるのだろうか。御父母様の相対圏に立つべき統一食口としては、自分の家庭に留まってしまうのは短絡的であり自己中心的でもあるように思える。

2014年5月27日火曜日

歴史時代を越える

私達の希望は何であり、その希望を何処に置いて向かっているのだろうか。豊かな暮らしだろうか。豊かな暮らしを未来に置いて向かっているのだろうか。豊かな暮らしが私達の希望と言える切実なものだろうか。おそらく統一食口であればその希望は付属的なもので、もっと本質的な希望を持っているに違いない。では子女が祝福を受けることだろうか。そして家庭を出発し祝福三世を見ることだろうか。あるいは氏族がみ言葉を受け入れ祝福を受けてくれることだろうか。しかしそれにしてもそれらの希望は未来に置かれていることは間違いないだろう。希望は未来に置くものだという固定観念が人間の中に既に備わっているからだ。それでは希望を過去に置くという概念はあり得るだろうか。そんな言葉の遊びに付き合えないと一蹴される前に言うべきことは、これははっきりと語られた御父様のみ言葉だということだ。「今まで歴史は未来を見つめてきました。それは希望が未来にあるという意味です。しかし統一教会の希望は未来にあるのではなく過去にあります。ここでの過去は歴史的過去を超越したものであり、現実を代表したものです。過去の結実であり、現在の中心であり、未来の出発基点です。全体を統合した中心です。ですから歴史を超越しているというのです。」この世の中は希望を未来に置いているが、統一教会は希望は過去に置いているというこの意味するところが理解できるだろうか。御父様は歴史時代という言葉を使われるが、現実にはこんな言葉はない。現実をこえた言葉として使われている。歴史時代が終わったと言うこととこのみ言葉は関連しており、歴史時代の範疇にあれば希望は未来に置いているが、歴史時代が終わった歴史を超越した位置では希望は過去にある。歴史時代の過去と歴史を超越した位置で言う過去とは異なり、み言葉にあるように現実を代表した過去となる。益々混乱することしきりだけれども、別の過去があると言うことは歴史的時間軸以外の時間軸が存在していると言うことであり、アダムとエバを始祖とする歴史的時間軸ではなく真の父母を始祖とする歴史的時間軸を超越した時間軸があって、統一食口は全く新しい超越歴史としての歴史の創造加担者であり、超越歴史の先祖だということだ。今までの歴史時代の希望は真の父母を迎えることだった。時代という言葉を機械的時の流れの区割りと認識するから解けない訳で、時代=天の使命を受けた時代霊だと認識しなければならないし、真の父母を迎えたことで一つの時代霊の使命が完遂された、即ち復帰摂理の為の歴史時代が終わったということだ。新たな超越歴史は天宙の中心である真の父母にどう侍っていくかという再創造ならぬ新たな創造摂理の出発となる。よって私達統一食口の希望は豊かな生活でも形だけの祝福理想でもなく、どこまでもどこまでも御父母様を慕い侍る私、強く広く深く御父母様に慕い侍る私になれる希望を切実に抱いてこそ、未来に希望を持とうとする歴史時代の堕落的私を超越できる。

2014年5月23日金曜日

今日の想い 747

人間の自我意識が芽生えることと、霊的世界の低次の領域で夢想することとは相容れない。ノア以前の古代の人間は自我意識の芽生えさえもなく、まさしく僕の僕状態で動物にも劣っていた。人間の自我意識が芽生えたのは洪水審判以降であり、徐々に自我を確立しながら、現代の人間の意識状態を獲得できたのはメシヤ準備時代であり、その頃急速に自我意識の確立が為されていった。現代の人間が論理的に理解できるのはギリシャ哲学からであり、それ以前に記されたものは古代インド哲学に見るように実に夢想的なものばかりだった。それはまだ自我意識が芽生えていなかった全体意識の霊視による思考であり、現代の概念による思考という概念という自我意識による把握に拠らなければ成り立たない思考とは異なる。よって古代の思考はイメージ思考であり現代の思考は概念思考と言えるが、実は概念は霊視すればイメージとなって現れ、現代人が思考している状態を霊視すれば、様々な概念の霊的生き物を戦わせたり合わせたりするのが見える。人間の意識状態が進化していくと同じように自然環境もリンクして進化しており、洪水審判以前の大気は現代に見るように青空が広がり澄み渡った大気が広がっていたのとは異なっている。太古には大気は濃い霧状態にあって青空など見えてはいない。大気の密度が濃い、まさしく大気の海状態から、洪水審判という終末時代の大雨で始めて太陽が見え青空が見えて大気は澄み渡り、自然環境がそうなったから初めて虹を空に見ることが出来るようになった。洪水審判以前に虹はないし、太陽がはっきりと顔を出すことも無かったはずだ。そうなると自我意識と太陽との関係性を問わずにはおれないが、霊的感性で捉えられる事実として自我の明るさは太陽の霊的性相的な明るさに拠っている。しかし現代の私達の自我意識が創造本然のものかというと異なり、それは自体自覚に留まる限りは堕落的自我意識の枠から超えられない。本来の自我意識は他体自覚であり、他体自覚に目覚めた者は古代の霊的世界の低次の領域に留まらず、高次元の霊界さらには神界の領域まで見通すことが出来る意識を備えることができる。そうなると霊視そのものも過去の低次元の霊視とは次元の異なる、まさしく開闢霊視となるはずだ。人間がそこまで位相を上げることができれば、今では実に難解な御父様のみ言葉も、霊的知の獲得と共にみ言葉の本質を受け取ることができるはずだ。古代の人間が概念世界を理解できなかったように、現代の人間が心情の世界であるみ言葉世界をなかなか理解できない。御父様を受け入れた食口であってもその理解は未だ限定的だ。ましてや反対する者達は彼らが理解できる概念でみ言葉をはかり、後天開闢時代という心情世界に越えていくことは出来ない。それは洪水審判で波にさらわれ死滅していった古代人間とまったく同じで、己の限定的思考に執着してしまい、新しい世界に超えていける天宙船に乗り込むことを辞退した者達だと言うことだ。

2014年5月21日水曜日

今日の想い 746

絶対信仰と盲目的信仰を混同していて、納得できないにもかかわらず、兎に角行け、やれ、と言われるのにどこまでも従うのは盲目的であって、絶対信仰とは言えない。その真意が後になってわかり、やらなければその時後悔するだろうから、と言うのが基本姿勢であったのは確かだけれども、その姿勢を私は貫けるとしても、孫子の代まで継承できるなど到底ありえない。堕落を知的側面からみると無知故のことであって、結局わからなければいつまでもサタンの罠に掛り易い、と言うかサタンの罠に掛り続けることになる。確かに若かりし頃は盲目的だったし、当時は食口誰もが霊的知の啓発は為されていなくて、お化けでも見れるのが霊的だと真面目に思っていて、信仰生命は中心者に預ける格好になっていた。それが当時では摂理的でもあったしそれで良かった。しかし盲目的信仰を貫けば絶対信仰になるのではなく、御父様が絶対信仰という概念を示されたのは良心に於いてと言うことであり、生殖器に対してと言われたこともあって、訳わからずとも中心者に従えという意味ではない。もちろん組織の一人して動くことが否定されるのではないが、上意下達一辺倒だったものから下意上達でわからないことは問い、意見もし、進言もできる組織にならなければ、組織は絶対信仰だと言いながらも盲目的信仰の土壌になってしまう。御父様は、わからなければ祈ってみろとは仰ったが、わからなくても歩めという盲目的姿勢は願っておられない。しかしながら今の現状はというと、私も含めて盲目的信仰の部分が殆どだろう。盲目的信仰で信仰の結果を見ようとするのは道理に合わないが、しかし絶対信仰の意味を問うことはできるはずで、そうしながら本来の信仰を取り戻し、信仰の動機(原因)が自分にあって始めて信仰の結果を自分の中に期待できる。ようするに霊的無知を解決して本来の信仰を獲得した分だけ信仰の結果は期待できるだろう。信仰はもともと能動的なものであるのに、盲目的という受動的なものに留まったままでは、自分の蕩減であり私が復活し私の天国だと言えるような実感的なものとはならない。祝福だってそうだ。祝福を受けて原罪は赦されたけれども、結局私のどこが変わり、子供も原罪のない二世なのにどこが違うのだろうと言うことにはならない。盲目的信仰は復帰基台摂理的であり、み旨を歩むにしても戒律的であり象徴的だ。しかしクリスチャン達は信仰素養があり、それは復帰摂理的であるし、み旨を歩むにしても形象的で成約時代に相応しい実体的み旨へと向かいやすい。クリスチャン達が不信した状況になったのは主の路程を聞けばわかるが、それにしてもキリスト教信者ではない私とクリスチャンとでは、個人的には何ら変わりは無いはずだと思っていたが、今までの私の信仰内容を俯瞰的に見れるようになると確かに大きな違いがあると思える。

2014年5月19日月曜日

今日の想い 745

統一教会ブログ村の数あるブログの中でも、み言葉を中心としたブログは数えるほどしかない。その一つのお気に入りを上げると、御言MISSINGーLINKだ。み言葉をただ載せるだけの受動型ではなく、み言葉の本質を受け取ろうとする意志を見ることができる能動的なブログだ。先輩家庭なのか後輩なのか、隅々まで目を通してはいないので定かではないが、食口の中にはまだまだ本ものがいると確認できて素直に嬉しい。本然の祝福家庭なのか条件的祝福家庭なのかと問いかけられるとき、心と体が闘っていれば条件的なものだと御父様は言われていて、そうすると誰一人として本然の祝福家庭は存在しないということになるのだろうか。勿論祝福家庭全員に問うてみなければならないし、問われたとしても心と体が闘うというその本当の意味すら解からずに答える者もいるだろうから、問う意味があるのかということにもなる。何度か聖酒を戴き祝福を受けたけれども、未だに心と体が闘っている状態を見れば、条件的なのか本然なのかは何の祝福を受けたかによるのではなく、受ける当人次第だと言うことになるのだろうか。後に「あなた達に与えたのは条件祝福だ」と言われたのは確かだ。ではやがて本然の祝福を受ける時が来て、その祝福を受ければ心と体が闘わない自分になれるのかと、教会祝福、国家祝福、世界祝福、そして天宙祝福と受けてきたけれども、しかしそれらは結局条件祝福であった。私にとってはそうだ。そして基元節で再祝福を受け、これこそが本然の祝福だと思っていた。私はそう信じていた。しかし再祝福を戴いて本然の祝福を受けたはずなのに心と体は闘っている。これをどう理解したらいいのだろうか。私達はこれは条件祝福だと念を押されて受けたわけではない。受けたときは祝福に条件と本然があるなどとは思ってもいなかった。祝福は祝福だと思っていた。おそらくそれは御父様もそうだったはずだ。サタンと神と御父様との間で聖酒を飲んだ者は原罪を許すという納得が為された。許されたことは事実だけれども、しかし人間に堕落性があってそれ故にサタンの主管圏から逃れることができない。よって蕩減を払い堕落性を脱ぐのでなければいつまでもサタンの主管圏内だ。祝福を受けた者が蕩減を払っていれば、或いは蕩減を払った者が祝福を受ければ、そこには条件的祝福などと言う言葉は出てこなかったはずだ。私達が蕩減を払っていないから祝福が条件的なものになってしまったと言うことだろう。その意味では私達がいつまでたっても蕩減を払わないので祝福を貶めていることになる。復帰された当時はいとも簡単に、そして突然に地上天国は為せると思った。しかし年数を経るほどに私達の中に堕落性が相当の部分を占めていることがわかり、蕩減を払うにしても自分自身である堕落性が死物狂いで拒む。決して容易いものではないことは年数を経る毎に益々その思いを強くしていった。条件的祝福にさせたのも私達であるなら、条件的祝福になったものを本然の祝福にさせるのも私達だろう。私達の自由意志と責任分担に於いて本然の祝福を勝ち取るのだろう。基元節、D-DAYを迎えるまでに為すべき指示事項があったはずだ。やったのはせいぜい210代の先祖祝福と総生畜献納くらいだろう。条件も供えることができずに基元節の再祝福だけはちゃっかり受けることができるかとなると、それも多分に条件的なものでしかないのかも知れない。