2008年5月27日火曜日

職場

若い頃は年を重ね顔も身体も崩れそうな者達を見ながら、何と年を重ねることは惨めなむごたらしいことかという想いがあった。自分の周囲に年を重ねることのすばらしさを語るものはいなかった。しかしこの年になって見えてくるものがあるという事が解り、若い頃がどれ程不自由であったかが解り、自分の内なる世界、内なる宇宙が、年を重ねることによって大きく広がってくることがわかった。年を取れば肉体的には活動範囲は狭まるが、内的なる活動範囲の広がり方に比べれば些細なことである。そう言い切れる自分に過去の自分は驚いている。たまに同業仲間で集まったりするといろんな身体の不具合の話で盛り上がったりするが、話の取っ付きとして付き合うのは善しとしても、身体に良い情報をあれやこれやと片っ端から引き出すのはウンザリしてくる。もっと深い内的な、精神的な、霊的な内容を授受したい。職場に於いてどれだけ過去に見えなかったものが見え、思考が自由に組み立てられ、内外の特に内なる世界においての活動範囲が広まったか、を見る必要がある。ビジネス会議に於いても、いつまでたっても昔と変わらず数字を並べ立てながら、結果と外的方法論に終始していたりする。食事に例えるなら量だけにこだわり、その内容については触れようとしない事と同意である。そこに何の創造的神霊も関与できない。お父様が霊界についてあれほどに重要視され触れられながら、ビジネス活動の事柄全てから霊的なもの内的なものを排除して携わっている。唯物論者にならない限り、そこから何の力もエネルギーも湧いてこない。はっきり自分の意見を言うと、今やっている卸し業務なり職人業務に何の霊的なもの内的なものも必要としていない。ただ、システムと流れ作業に従事しているのみで全ては事足りる。霊界が本当に解るならばその場が自分にとって内的霊的成長には繋がらないことを理解するはずである。それは死を意味している。勿論携わる兄弟それぞれは家に帰れば内的霊的なものが必要であり成長もする。しかし職場が神霊に満たされ、従業員が感化され、内的霊的に成長できる場とはならない。携わる従業員がそれぞれの業務に内的霊的価値を見出した時、初めてその職場なりその店は息を吹き返す。活きた職場と店にこそ人も集まり物も金も集まる。そういった教育こそ必要であるのに外的な事柄に終始している。数字に主管された機械的労働だ。眠っていることに気が付いていない。本当の価値に気付いていない。

今日の思い 1

自分という存在でしか表すことができない、自分の存在を通して、今まで触れたことの無い新しい光を人類に差し出すことが出来る、そんな創造生命の芽が自分の中に吹きだそうとしているのを感知する。お金だろうが物だろうが今存在するものを掻き集めても、そこに本質的喜びは見出せない。与えることの喜びは人には無い自分色の何かを与えることにこそ、唯何かの形で得たものを与えるのとは違う、本当の喜びが伴うと思う。芸術を通してその人ならではの新しい光を受け取るように、日々の生活の中でも、自分は何を与えることが出来るだろう、自分色の与え方とは何だろうと言った問いを投げかけることで、自分の個性真理体としての創造意識の芽が吹きはじめる。その芽が人類と宇宙に影響を及ぼすほどの大きな創造となっていく。与えることに飢えた人間、創造することに飢えた人間こそ、人間の在り方の本質に近い。受けること奪うことに専念する意識を持ったIN思考の人間存在と、与えること創造することに専念する意識を持ったOUT思考の人間存在を霊視すれば、明らかに発光体となって光を放つ存在は後者である。会社でもいつも新しいものに挑戦している会社は光っている。光あるところに霊はあつまるし運勢も寄って来る。勿論人も霊が引き寄せる形で集まってくる。真の愛というより精度を増した、より霊化した愛が携わる与える意味と創造する意味は、物のサービスを越えたより心情的与え方、創造の仕方と言ったものかもしれない。ビジネスと言う形を取ってみ旨の一端を担い活動しているが、この世の真似事ではなく本物の与えるビジネス、創造するビジネスを手掛けていく時が来ている。

2008年5月26日月曜日

二世祝福

二世祝福の会合に参加してきた。自分の子に対してどう対処して良いのやらわからず、他の家庭はどういう状況で、どう対処しているのか、子供達はどういう基準なのか、取り敢えず他の家庭と接することで何がしかの糸口が見つかるやも、という思いで参加してみた。子供に祝福を与えたいという思いは共通しているが、その思いの背後にあるものはそれぞれ様々である。御父母様に繋がった血統を後孫に繋いでいく、それが二世祝福であるという認識は正しいが、頂いた祝福の種、真の愛の種を育て血の在り様を堕落の在り様から本然の在り様に変えていくという意味をどう理解しているか、真の血統に繋がるという意味が真の愛を相続する、為に生きる存在となるという意味とリンクしているか、その理解度でそれぞれの家庭が願う二世祝福の背後にあるものは違ったものとなる。とにかく、いろんな祝福家庭に接するうちに自分の状況との比較に終始している時点でそれに関わる資格は自分にはない。この子の為に良かれという動機だけでエネルギーを投入し始めると、それは親の欲目という要素に結果は集約されてくるだろう。そこに真の愛、為に生きる想いとして花が咲くとは思えない。二世祝福において、うまくいったとかうまくいかなかったとかという判断なり言葉は全くそぐわない。そこに真の愛は介入しない。お父様は祝福を与える時、その子の為という想いはもちろんある。しかしそれだけではない。子々孫々の為という想いもあるし更に、国を想う気持ち、世界地球宇宙神様を想いその為にという想い、国を祝福し宇宙を祝福する想いがきっとあるはずだ。お父様の祝福の意味は本来そういった次元にあると思う。我々が単に結婚するだとか血統を残すだとかという意味合いを超えて、より高次のより公的な感覚が伴うべきだ。解り易く例えればこう言える。明らかに内的霊的な課題を持っていたり、外的な欠陥を抱えている相手でもそれが神様の願いであるならどうぞ受け入れさせて欲しいという内的至高を得たものが祝福を受けるに値する。それほどの愛に満たされた者であればどうどうと祝福を受けたといえるだろう。愛や想いが自分の子供に留まるのであれば祝福を受けたのではなく奪ったという言い方に近い。決して裁いている訳ではない。自分への認識であり自分のあるべき目標ともいえる。現実は他のどの家庭よりも低い基準でうろついている。もがいている。

2008年5月23日金曜日

聖霊体験

神様が尋ねてくださったことが一度ある。勿論いつ如何なる時も神様は尋ねてくださるが、いろんなしがらみや思いが邪魔をして神様に会える次元には届かない。いつも神様の横を素通りしている。市内の高校に入学当時、最初は郊外にある親戚の家に居候しながら通っていた。叔母は朝晩の食事の世話もしてくれたし、叔父は市内の学校まで仕事のついでに送ってくれていた。もっと心を開いて巧く入り込んでいければいい関係を築けたのかもしれない。しかし自分は人との関わりが不器用だ。そのうちだんだんと自分の居場所が無くなっていった。どこで探したか知らないが四畳半四千円の安アパートを親が見つけてくれ、新しい生活が始まった。ビルに囲まれた薄暗い木造のボロ屋で、やくざな臭いのする、肩を怒らせたような人種が数人住んでいた。怒鳴り声や嬌声が薄い壁を通して届き、勉強どころではなかった。やっと気兼ねなく過ごせると思いきや、今度は寝るにもびくびくしなければならない状況になった。友達を通して教会に通い始めた頃で、あまりにも怖くて下宿を抜け出し教会から学校に通ったこともあった。神様が尋ねてきたその時はそんな不安定な頃だった。別に特別な光景に出会ったわけでもないし大きな事柄が自分に起こった訳でもない。教会には通っていたが、自分にとっての救いがここにあるという確信をまだその当時、持つには至らなかった。いつものように学校の帰り、教会に顔を出して夜半に下宿に帰る時だった。裸電球が灯る中で靴箱から自分の靴を取り出しながら、またあの薄暗い下宿に帰る気の重さに耐えかねていた。いつもなら誰かが声をかけてくれてその声が背中を押してくれていたが、その日は誰もその場にはいなかった。そのせいもあったのか非常な孤独感を覚えた。華やかなネオンの灯が辛うじてここまで届いている。瞬く残光が色褪せて悲しい。外に足を踏み出すと小雨がぱらついてきた。暗い空を恨めしく眺めた。同い年くらいの若い子達がはしゃいで通り過ぎる。彼らと自分が本当に同じ世界にいるのが不思議だった。自分は唯の形だけの抜け殻で、生きてることの実感も無かった。歩き出そうとした時、急に何かに捕らわれた。空虚な自分の中に急に暖かいものが入ってきて内面を一瞬で満たした。満たされたものが熱くなって込み上げてきた。その瞬間、訳のわからない涙が溢れ、頬を伝った。頬に自分の熱い涙と降り始めた冷たい雨を感じながら自分と神様が同じ心境にあり、自分のこの場で共に泣いているのがわかった。自分を慰めてくれているのではなく、一緒にその孤独感やらやり切れぬ思いやら切なさやら無力感やら、様々な思いを共有していた。何か悟らすでもなく、決意させるでもなく、ただただ一緒に泣いている。自分に現れた神様はそういう神様だった。帰路の小一時間、自分の感情と、そして別の感情をも味わっていた。下宿に帰ってもその感覚が抜けなかった。目がふやけるほど泣いた。私は今の今までその出会い以上の体験をしたことはない。その体験がそれからの信仰生活の動機でもあり、どう捉えるべきかの問いでもあった。自分なりの心情路程を重ねた今、これがひとつの聖霊体験とだけ言えないほど、自分の心の奥底で主張し関わってきた。大きな転換期や決意を要する時、その時の神様に違いない感情や想いが大きく自分を包み込む。

2008年5月19日月曜日

代身という意味

自分はみ旨の一端を担い歩んでいるという自覚があるだろうか。自分の与えられた責任や業務に対して聖業を為しているという実感があるだろうか。自分の手にかかるものがお父様が手に掛けているという感覚があるだろうか。仕事であれ何であれ自分を一生懸命投入しながら、それはお父様が投入しておられる、与え尽くそうとしておられる、という想いがあるだろうか。自分に掛けられる従業員やお客様の言葉や想いがお父様に掛けられたものであるという認識があるだろうか。喜怒哀楽さえもそれが自分の個人的なものなのか、あるいはお父様が受け取る喜怒哀楽なのかの区別がわかるだろうか。我々はお父様の手足のみならず、お父様の代身をも超えた、お父様自身を自分の中に視なければならない。そういう境地なり意識なりとなって初めてお父様はこの身を通して働いておられると言う事が出来る。信仰を超えた、侍ることの意味を知ることが出来る。献身してそう月日は経っていない頃、一人の兄弟とある商店街に立って活動していた。誰かが通報したのだろう。二、三人来て最寄の署に連れて行かれた。何のことやらさっぱり解らず理由を問い、抵抗もしたが半分羽交い絞めでしょっ引かれた。署につくと奥にやられ、ふたりは分けられ立たされたまま尋問を受けた。訳のわからないことを聞かれても答え様が無い。その内、頭を垂れて黙るしかなかった。衝立の向こう側にいる兄弟の方からドスンドスンと鈍い音が届く。それに合わせて鼻から漏れる呻きが鈍い音に被さる。最初は様子が掴めず、本人が机でも叩きながらすすり泣きを始めたのかと思った。顔は厳ついが幾分天然ボケの優しい兄弟だった。自分の鼻先まで接近した光沢のある顔の目の奥を覗いたとき、危険を察した。兄弟は下腹を小突かれて呻いているのだとその時分かった。反射的に身体を硬くして身構えた。それを待っていたように、相手の動きを認め、無機質な顔面を鼻の先に見ながら下腹に二、三度痛みが走った。驚きに顔を歪めながら涙が流れてきた。痛いのではない。今自分に向けて相手から理由のない仕打ちを受けている、その事が悲しかった。献身して間もない頃で、尊いみ旨を担い歩んでいるという誇りがあった。その誇りを地べたに叩きつけられた思いがした。程なく署に電話連絡があったようで開放された。帰る道すがら、兄弟は事が済んだことを素直に喜んでいたが自分は複雑だった。誇りを抱き使命に燃えていた自分から、嘘のように一瞬で魂が抜け出た。高潔な想いからの出発ではなく、自分を人間以下におとしめる立場からの再出発を要求されていることは分かった。汚い、惨め、誰からも理解されない、そのような否定的な事柄全てを背負わされた自分を認めざるを得なかった。それがどういう意味かその当時理解できなかった。今でこそお父様の心情路程のほんの一端を味わうことができたと理解できる。

2008年5月18日日曜日

地球霊化

今の人類は肉体という覆いで覆われているため、その内面を表面的肉体に見ることはできない。行動や表情を通して内面を垣間見ることは出来たとしても、極悪人と聖人を並べても外的判断でどちらがどうかを言い当てることは出来ないだろう。しかし内面の様相が身体に明らかな形で表れる時代が遠からず来る。それは単に表情が怖いだとか厳ついだとかと言う類ではなく、例えば角が生えてくるだとか、動物の顔になるだとか、そういう明らかに様相を異にする存在に分かれる。昔子供の頃、食べて直ぐ横になると牛になるだとか良く言われたものだが、まんざら嘘でもない。今の学校教育は進化論を何の疑いもなく教えているが、神の創造の意思を無視した論理付けは、どんなに理屈を付けようとも矛盾点はいくらでも指摘できる。矛盾点を見ようとしない背景に唯物論との関係がある。進化論は唯物信仰を貫くために利用されたに過ぎない。しかし、進化という言葉を神の創造の段階を示す言葉として使うなら、それは正しい。人類の始祖はアダムとエバではあるけれど一人の男性と一人の女性が急にひょこり現れた訳ではない。ひょこり現れたような記述をするから科学がここまで発達した今現在、多くの誤解を招く。人間としての本質からすればどうでもいいようなことではあるが、どうでもいいようなことに捕らわれて低次元の肉の思いに没頭するように仕向けられている。肉に没頭して本質が見えない、五感を超えた霊界や自分の霊の様相が見えない。現在、宇宙規模の大変化の途上にある。地球もその在り方として大きな変容を遂げる。簡単に言うと地球は霊化する。勿論地球に籍を置くあらゆる存在もそれに合わせて霊化していく。この身体が肉の在り様から霊化した在り様に変わってくる。自我の在り様、魂の在り様が身体にそのまま表れてくる。唯物信仰に侵された者は肉第一主義の自我の在り様が表面化する。彼らに取ってそういった内面の在り様が霊化するとは獣化すると捉えたほうがよい。角が生えてくると捉えたほうが良い。羊か山羊かではなく、人間か獣かに分けられる時が来る。人間もその魂の在り様で位が分かれる在り様をするだろうし、獣化するものもいろんな獣の在り様をする。最近、これが人間かと思うような犯罪を犯し、本人は何食わぬ顔をしていたりするが、そういった類は唯物信仰を超え、そういう思考感情さえも動物本能に追いやられた獣の様相が霊的に見て取れる。霊化すればその様相がそのまま身体に表れる。キリスト信仰による愛に目覚め、更に真の父母を通して高められた真の愛に侍ることに内面を染めつくした者は白い衣を羽織る身体に霊化する。

2008年5月14日水曜日

職場

レストラン業の従業員は一日の殆どを狭い空間の中で過ごさざるを得ない。外的に言えば時間と空間を搾取されていると言えるかもしれない。従業員の中には自分という存在がガンジガラメにされ自由を奪われたかのような認識に立つ者もいる。本来なら自分からこの環境圏に入ることを選んだ立場で、その環境圏を主管すべき立場でありながら、逆に環境圏に主管されている。外に出ていけない、自由になれないという不満で就労時間を過ごす。縛り付けられた意識で何の創造的な意志も出てこない。本質は、その業務に入り込めば入り込むほど深みが見えてくる。その環境に没頭すれば没頭するほど自分の宇宙は広がる。そこからいろんなものが見えてくる。その認識fが無いから心そこにあらずで幻影の中に浮遊する。自分が身体を持つ幽霊と化しているという自覚すらない。今日一日を労して何も残らない。この意識をどうやって開放させるか。一度、檻と化した職場を外す必要がある。あるものは職を変える必要に迫られるかもしれない。しかしあるものは檻は自分が作り自分がその中に入っていたことに気付く。そのことに気付いたものは世界や環境が徐々に変化していく。自分を護ることだけに汲々とし自分の事以外に想いを至らす余裕が無い、そういう真っ暗な状態から徐々に光がさしてきて周りが見えて把握出来るようになる。更に自分が光を放ち愛を与え、新しい世界としての職場を創造していくようになる。職を変えたものは、自分が作っている檻とは気付かず新しい檻の中で同じ幻影の中に浮遊する。

小さい頃から良く泣いていた。周りの者達と同じように振舞おうとしても内から溢れる感情を必死で抑えようとした。しかし限界点を超えてしまうと耐えるに耐え切れず噴火したように号泣した。突然の様子に周りの者は呆気に取られていた。外見は同じでも自分が他と違う内面の様相をしていることに小さい頃から気付いていた。一般的な言葉で言うと感受性が強すぎるということだ。男らしくないとか、いつもメソメソしているだとかそういう視線が鋭く内面に突き刺ささり、そこから言いようの無い孤独感がドクドクと流れ出る。しかし親だけはそういう目で見ることはなかった。ただ子供の様子そのままを受け入れ泣き止むのをひたすら待ってくれた。子供の私が感情の放出を終えると、飲み物や菓子を与えてくれて泣いたことに関しては何の一つも触れはしなかった。自分でもどうにも主管できない感情に振り回され、受け入れてくれる親がいなかったらどうなっていただろうかと思う。お父様が語られた言葉の中にその心情に少しでも触れられれば嗚咽を隠し切れないだろう、といったような内容を語られたことがある。勿論私の次元とお父様の次元とは遥かに違うけれど、その想いは自分なりに幾らか理解できる。自分は自分の感情に限ったことであるけれど、お父様は神様の感受性を供えておられる。ある青年が人生不可解を理由に身を投げた新聞記事をごらんになられて何日も泣かれたように、親なる神様の想いがお父様ご自身の想いである。一般人がその青年が可哀想だと思う感情を超えた感情を抱かれたはずだ。その青年の親以上の想いを抱かれたはずだ。そしてその想いを自分にも差し出して下さっている。私達にその認識はあるだろうか。お父様に侍るに、その位置に侍るのでもなく周辺を慮って侍るのでもなく、その尊い無償の愛に侍る。私の為に涙して下さる親の愛に侍る。み旨を歩むに於いてもいろんな取り決めがある。政治的な事柄も確かにある。要領よく泳ぐことも必要かもしれない。しかし真の愛で自分とお父様は貫かれていると言う実感を持ってお父様に侍ることを忘れ、その環境に埋もれているなら、それは親にとってどれほど悲しいことだろうか。お父様の姿を前にして目頭が熱くならないことは無い。目頭を押さえながら、お父様と自分が愛で貫かれているということを実感している。

2008年5月13日火曜日

親として

悲しい寂しいいろんな寂寥感が魂を染めるが、それは受けるべきものとして受け入れよう。一生懸命愛を注いできたつもりが唯のつもりでしかなかったのか。小さい一人の親としての存在感も子供の中にはないのだろうか。しかし他の誰の責任でもない。子供に対して焦る思いで接しても今の状況を変えられるわけではない。表面的な素行をどれほど注意しても全ては逆効果だろう。子に接する度に自分とは何者かを先ずその目が問うている。自分が歩んできた道のりが自分の魂の在りようが本物かどうかが問われる。自分が勝ち取った世界、宇宙の中で子は育っていく。今子供が住んでいる世界が今まで子に接してきて自分があたえたもの。親が与えて生きている世界と自我の在りようが見えていく段階での模索との狭間で葛藤する。子供の姿を見て親としての自分の在りようを悟る。先ず現実そのままを受け入れる姿勢を持つ。現実以上でもないし現実以下でもない。自分の中にある祝福家庭としての祝福子女としての理想イメージを一旦横に置く以外自分の居場所は無い。それは自分の理想イメージであって相対者にも子供にもそれを共有できる段階に至っていない。どれほど心の中で子の名を連呼しようが情けない思い焦る思いに身を焦がそうが快い波動となって子に届くことは無い。すべてを受け入れること、そこからが先ず出発点だろう。観念の域、感情の域での解決策は無い。ただただ、この子の為に良かれと想う祈りと念、そして如何なる代償をも引き受ける意志で待つ以外ない。

2008年5月12日月曜日

自我

人類の芽がこの地上に吹き始めた頃、現在の自我の在り方とは様相を変えていた。勿論地球の在り方も現在のそれとは著しく異なる在り方をしており、霊も肉も混ざり合った状態(決して正しい表現ではないが)と言えば幾分イメージできるかもしれない。まだ地球とも言えないその場は霊界でもなく物質界でもない。光が宇宙に溢れるのもずっと後の事だ。そのような混沌状態から創造の御業は始まった。天地創造の時間軸を時間という概念がもたらされてから辿って行くと人類の霊的な在り方、そして肉的な在り方が今の状態になるのは極めて最近の事であるということが理解できる。人類においても他とは区別された自分という存在を認識できる自我の確立をもたらされたのも極めて最近のことである。勿論数十年数百年という単位ではない。少なくとも数千年数万年単位での話である。自分が百年生きれるかどうかと言うのにそんな時間単位での話は無意味であると大概の人は思う。その思い込みの背後には自分は百年そこらしか生きないのであり後は関知せず、肉体を持って生きることだけを生きると認識している唯物思考からその観念は生ずる。しかし唯物的尺度での時間感覚を信じようが信じまいが自我は生き続ける。在り続けると言った方がいいかもしれない。自我にとって時間は関係ない。あらゆる時空を今でありこの場として認識できる。自我は時間空間、そして霊界法則をも越えたところに存在している。地上で生きるに肉の服を着、霊界で生きるに霊の服を着る。肉の服を脱ぎ、霊の服を脱げば自我の中に没頭する。他とは区別された自分があるとの認識は人類の皆が持っているし、それ故に自己中心的ともなりえるわけだが、自我の在り方として完成された訳ではない。区別された立場でこそ自分を認識して自分を護ろうともするが区別された立場でこそ与えるという概念が生じる。必死で自分だけを護ろうとする意識から相手をも護りたい与えたいという意識が立つことで明らかに自我の在り方として高次的位置に立つ。理屈で為に生きるものにならないといけない、愛さないといけないという位置から自分の内面からほとばしる様に愛したい与えたいという想いに満たされていくようになる。瞑想して自我に没頭すれば自分という存在が時間を超え場を超え、即ち肉体を超えた存在であることを認識する。悠久なる時を遡ってその時代時代に経験した事柄、次元をステップアップしてきた路程を感知できる。イメージとして捉えられるのではなく自我の在り様を感知できる。ノア以前の在り様を感知でき、虹で人類に約束され受け取った想いを感知でき、それぞれの文化期を感知でき、イエス様が地上に居られた頃を感知でき、十字架に付けた人類を感知でき、それによって光を人類にもたらした様相を感知でき、そして今の在り様を感知している。それは尤も実体的感覚だ。それぞれの時代を生きたと言い切れる自我が在る。堕落して神様を悲しませたのは自分であると認識でき、イエス様を十字架に付けたのは自分であると認識できる。自分のことであるからこそ罪も自覚し、懺悔する必要性も自覚する。

2008年5月9日金曜日

読書に関して

本を読むことは著者との対話を意味する。いろんな人と接する機会を持てばその人の人生観なり世界観なりを垣間見ることが出来るように、いろんな本を読むことで著者の獲得した事柄を自分の内側に持ち込み、自分の中で対話させることができる。本から得る情報そのものに価値があるのではなく、情報を材料として思考することに価値がある。思考することで咀嚼し魂に消化吸収する。勿論どうでもよかったり或いは自分にとって悪影響を及ぼす本もあるわけで、分別する必要はある。人間が人間であることの意味は言葉を所有する事にある。人間と他の動物との相違は動物という群れの魂に比較し個の魂を所有しており、それが一人一人の自我から来るものであるということ。自我は本来第二の神として親なる神に似るべく愛の完成を追及している。愛を与える受けるという精神活動こそ人間の本質でありそれを高めていくためには言葉をして高められる。善き言葉に神霊が宿っている。言葉で反省し、言葉で悔い改め、言葉で祈り、言葉で思考する。言葉を用いず自我の働きは何もなし得ない。辞書に載る一つ一つの言葉を言うのでなく、じぶんの内面にある言葉を指す。受け取る印象を内面の言葉で観念として組み立てる。全ての本を最初から最後まで読む必要性はない。そういう縛りは責め苦以外何物でもない。訳の分からない相手に付き合う必要もないし、相手の話全てに付き合う必要もない。ビジネス書や実用書を読み漁るのもいいが、全てが受け売りで自分の中で組み立てられておらず、死んだ言葉の蓄積となってこれはこれで自分を悩ます。書き留めておきたい内容がその中にあるかどうかがその本が自分の思考対象となりうるかどうかの判断になる。普通、本でも記そうと思えば自分の深みに下って行く。だからただ単に相手と会話するよりは深い交わりを本を手に取ることでなし得る。み言葉に出会えたことで人類に隠されていた真の言葉を得、それは神様の概念を構築できる言葉であり、神様に出会える言葉であり、封印されていた歴史の秘密を解き明かす言葉である。み言葉で自我を再構築していく過程が信仰生活である。偽りの言葉で組み立てた建造物そのものが自分であるのでそれを取り壊すに七転八倒するがみ言葉で構築されたものが上回ってくると、ある程度の高みに立って見渡すことが出来る。侍る生活が信仰生活に取って代わる。

2008年5月8日木曜日

無常に対する姿勢 その二

この世は全てが移り変わっている。誰もが年を取り身体は朽ち果てる。国も破れ社会も変わる。自然万物も移り変わらないものは何一つ無い。この移り変わり行く世に生を受けたことの意味は正にそのまま、移り変わりに自分を任すことを選んだということ。子供の時の時間の流れと今の時間の流れは明らかに違う。時代が進めば進むほどこの世はめまぐるしく移り変わる。移り変わる世に翻弄され流されるままに任せていて、変わらない本質は経験できない。経験するとは動かないもの変わらないものを自分の中に得ること。流されるままに任せて何も掴まなかったらそれは経験したとは言えない。移り変わる、そこに意志が働いていることを忘れている。走る車は動くことそれ自体が目的ではない。目的地に着くという意志があって動いている。何の方向性もなく移り変わっているようだが何処に向かっているかを見据えることで、流されているのではなく向かっているのであり、確かな目的地があってそこに向かって動いていることを認識する必要がある。年を取ってしまったのではなく、年を取ろうとして今に至り更に年を重ねて行きたいという意志があること。年を取ることで肉体的欲求に翻弄されずより精神的霊的要求に自己を向けようとする意志を視る必要がある。一瞬一瞬の未来に対処しているのではなく、意志を持って動かし創っている。こうなったのではなくこうしたのであり、どうなるのだろうではなく、見えない心魂の奥にある意志をもってこうする。表面的な肉体や感情に関与する世間一般の理解する意志ではなく、心魂に繋がる本質の意志を見なければならない。回りくどく説明する必要は本来はない。簡単に言うと神様に繋がり、神様の意志を見ると言うこと。自分のように回りくどい説明が必要な内なる思考が石のように硬い者もいる。

無常に対する姿勢

25年も経てば崩れてくる。形あるものは崩れる。特にここ数年の崩れようは雪崩の如くだ。自分も年を取ったが妻の衰えようは支えて護る猶予もなかった。自然に逆らえないならとっくにこの世の存在ではないだろう。息を繋いでいることさえ奇跡であるのに日常のことなら大体こなすまでになった。本当に有難いと思わないといけない。薬のせいで頭も滅法薄くなったが人目を気にしなければ何て事はない。大病すると身体の全てに負担が掛かり弱くなる。骨と皮だけと言うと少し大袈裟だが筋肉も脂肪も削げ落ち昔の元気だった頃の面影は無い。たまに出かける時など納得できないのか化粧に相当の時間を費やす。今の年寄りは若くて元気だ。60や70になっても50代そこそこにしか見えない者も多い。そういうのと比較して落ち込むらしい。90に届こうという親の方が子の当人より若々しいのだから仕方が無い。霊界に於いては自分の最も光り輝いていた頃の姿格好になると言う。確かに祝福を受けて25年経つが、最初に顔を合わせた時の表情が自分の内面に焼け付いて、未だにその印象を相手に視ている。そういうことなんだろう。相手が自分をどう視ているかはわからないが、二倍にも増えた体重で昔の好青年だった頃とは明らかに違うのに、唯のひとつの提言も無い。おそらく相手も同じなのだろう。いやそうではなく自分の思い込みでただの無関心なだけかも知れない。人間は意識圏と無意識圏を行ったり来たりしている。簡単にいうと意識圏は起きた状態であり無意識圏は寝た状態だ。この地上に生を受け意識圏に埋もれるとは移り変わり行く世界に魂を置くということ。仏教で言うところの無常がそれだ。無意識圏は五感では意識できないがより高次の感性で感じ働きかけることが出来る。無意識圏という言い方に問題があるが要するに自分が実感として得た変わらないものの中に魂を置くということだ。それを踏まえて自分の人生にどういう姿勢で自分の何を使って臨んで行けばいいか。次のポストで逍遥してみたい。

2008年5月7日水曜日

水沢里で その二

不覚にも寝てしまった。聖歌を皆で賛美したり先生方のお話を聞いたりして内的準備を整えていた時だ。どの程度無意識だったのか解らない。けっこうな時間が過ぎたようだがほんの一瞬の事だった。姿を現される直前にこの事が起こり、無意識から意識圏に再度送り出された。一瞬の戸惑いはあったが状況を瞬時に把握すると、周りで大きな拍手が巻き起こった。意識を立て直して拍手をすると御父様は登壇された。初めての実体の御父様との出会いがこの唐突な状況下で為された。内的に準備に準備を重ねてきたつもりが何の意味もなさないのかと悔いの気持ちもあったが、しかしお父様に対する何の思惑や固定された観念も吹き飛び、ある意味まっさらな状態で内なる眼にお父様の存在を認めることができた。この御方に出会う為に今の自分が在り、脈々と流れて今に至った歴史やら、背後にある数え切れない霊達の結実としてこの場に自分が在る。しかし当時そこまでの認識は意識上は把握してはいなかった。自分という存在と意思を超えたところでこの状況が設定されたのだということは、後になって思えた。自分でも良く説明できないが、自分の中で自分とは別の期待感として込み上げるものが沸いて来た。会場はおそらく古い学び舎だと思う。校庭らしき広場に青いビニールシートが敷かれ男女が相対するように向き合っていた。極度の緊張感と整然とした静けさの中にも、何か沸き立つ期待の熱気が溢れていた。御父様は男女に分けられた中間線を行き来しながらお話された。緊張のその場を和らげようとされたのか誰かを指名して歌を歌わせたりされた。始めるためのお祈りをされるでもなく組み合わせを唐突に始められた。何組決められただろうか、ほとんど始まって間もなく自分が所属する部署に声を掛けられ出るように指示された。自分を含む7~8名が前に出て並び、一通り見渡されるとこんどは女性の一群を見渡され次々と指名されていく。直ぐにも自分の番となった。暫く細い眼でご覧になられると振り返って奥の最後列に位置する二人を立たせられた。その内のひとりを呼び寄せ年齢を聞かれる。交互に自分と相手を見ておられたが、まあいいだろう、と一言口にされ次の組み合わせに進まれた。事はあっけなく終わった。本当にあっけなかった。係りの先生方に促されてその場を引き、続けておられる御父様に向かってふたりで啓拝を捧げた。隣に添うて歩く相対者に戸惑いながらも空の青さに気付き、秋日で柔らかくなった空気を思いっきり吸った。今までの歩みに区切りがつけられ、新しい出発がその時為されたことを感じた。あれから25年を超える月日が経つ。こちらに来てお食事をお出ししたときに御父母様に向かって二人で啓拝を捧げて顔を上げると、お父様は我々を見ながら兄弟のようだねとお母様に言っておられた。組み合わせの時まあいいだろうと言う言葉が、悪い意味ではないにしても多少引っかかるものとして自分の中にずっとあった。それが年齢のことなのか相性のことなのか口にされたその意味を図りかねていた。その言葉が兄弟のようだと言う言葉に取って代えられて自分の中でひとつ完結した。

水沢里で その一

名古屋空港を飛び立つと一時間も経たずに金浦空港に着いた。初めての訪韓だがあまりの近さに驚いた。近くて遠い国という言葉が浮かぶがこれ程に近いとは思わなかった。空港では既に多くの兄弟でごった返していた。喧騒の中で僅かの説明が済むと、先導をしている人の見え隠れする旗を見失わないように付いていった。目に飛び込むハングル文字がここが韓国であることを示している。日本には無い高揚感の空気に包まれて、黙々と歩くにも興奮は隠せない。バスに乗り込んで一息ついたが用を足しておけばよかったと少し悔いた。乗車してくる一人一人の顔に視線が向いてしまうが、皆一様に晴れやかな面持ちをしている。席が満杯になると係りのものが運転手に声をかけ、バスは水沢里に向けて出発した。雑談で賑やかだった車内は動き始めると一瞬静かになったが、誰彼ともなくまた話し始めて賑やかになる。スモッグでうっすら煙るソウルの町並みを抜けると視界は開け、右も左も田畑が広がっている。話に聞いた韓国のパリパリ運転らしく、バスはエンジン全開で突っ走る。相当な振動で尻や腰が痺れるほどだったがそれもまた話の種で、激しい振動も苦にはならなかった。高校を卒業して直ぐに教会生活を始めたので、ここまでの道のりは長かった。それだけに内的な路程も決して平坦なものではなかった。いろんな場面が思い出せれ、記憶として内面に沈んでいたものが浮かんできて、その時その時の感情が呼び起こされる。心に刻まれた記憶のひとつひとつがこの祝福の為にあったのだと思うと感慨深い。車内の喧騒も静まって、中には寝入っていた者もいるようだが自分の内面は益々冴え渡り道中寝て過ごすことなどできなかった。ソウルを遠のいて車線は少なくなくなっていき、その内に舗装されていない田舎道を土埃をたてて走っていた。暮れはじめて雲ひとつ無い秋空が青を濃くしてくると、韓国独特の家屋が影絵のように遠くに近くに姿を現す。あちこちで野焼きが燻り、天に向かって真っ直ぐ煙が昇っている。沿道に咲き乱れる秋桜が土ぼこりをかけられながらも迎えてくれている。遠い昔、確かに車の中から同じ風景を眺めた記憶がある。懐かしい気持ちが内面に満ちる。向かいから来る、明々と室内灯を点けたバス数台とすれ違った。今日のマッチングを終えた兄弟達が皆笑顔で手を振っている。あれほどに厳しく女性男性と分けられて生活していたのが、男女で座っている状況に何か不自然さも覚え新鮮さも覚えた。車中の姉妹達は羨望の声を上げながら手を振り替えし、皆の期待を更に募らせながらそれぞれの想いを乗せたバスは目的地に到着した。

2008年5月6日火曜日

神とサタンの戦い

最近ネットを通してアメリカに居ながらにして日本のテレビが見れるようになった。便利な世の中になった。モニターに映し出される日本の同時映像は14インチ位の画面なら遜色は無い。今日もCMはいろんな形で笑顔と幸せのオンパレードを繰り広げる。そこに人間としての苦悩や叫びは微塵も匂わさない。それを映像を通して日がな受け取ることで知らずと洗脳されている。その幸せそうな笑顔に騙されて本質を見失い、映像の影を自分の現実と混同し、浮かれて生きることだけに没頭する。どんなに悲惨な事件もモニターを通せば唯の話。四角いフレームで仕切られて届けばそこは劇場。情報は確かに垂れ流しだが総ては他人事というフィルターが掛かって届く。画面を通して受け取るものの中に本質はない。唯の風景画像でもその画像を撮った人物の主観が入っている。撮影枠を外れた景色は勿論届かないし更に音声で脚色される。如何様にも視聴者を持って行きたい所に誘導できる。便利な世の中は悪の繁殖をするにおいても便利なのだ。勿論摂理上ここまでの科学発展が為されてきた。神の側からしても伝えたい事柄が一瞬にして地球を一周し人類に周知させることが出来るかも知れないが、サタンの側も悪の繁殖は一瞬で事足りる。この目には見えずとも、激しい攻防戦がそれぞれ個人の中で社会の中で国や世界の中で霊的次元に於いて繰り広げられている。その自覚を持って全てに向き合うべきだ。メディアを完全にシャットアウトするわけにはいかないが受け取るものに無防備に自分を曝け出すべきではない。身体は硬く服をまとっていても、魂が全裸の状態で弄ばれていることに気付く者は少ない。

摂理完遂に向けて

五感で受け取るものこそ現実であり、それ以外への存在に対する認識は否定する。遠い昔、人類は霊的な感性に蓋をされ本質的なものに対する無知さえも自覚していない状態が続き今に至る。ここ数年メディアであるとかいろんな形で、五感を超える感性でしか受け取ることが出来ない事実もあることを情報として知らされる機会も増えたが、しかし未だに多くの者や神を信じる者の中でさえ、知らない間に唯物的思考で毒されている場合が多い。よくよく自分の思考形態や物の見方等を観察してみればいい。何の疑いも無く霊的なものを排除して思考している。しかし今信じて疑わないものが音を立てて崩れ去る時が必ず来る。近く人類は驚天動地の変化に遭遇する。KEYになる年は2012年から2013年。政治であろうが経済であろうが社会体制であろうが今までのシステム、価値観がことごとく崩れ去る事態が起こる。この地上に於いて長い期間を費やし肉体に対する感性、五感を発達させてきた。遠い遠い昔、人間創造過程の初期に於いては五感器官がまだその形をはっきりさせておらない時期もあった。その時期のように堕落という事件で霊的な感性に蓋をされ動物と同等いやそれ以下の状態となり、創造初期の五感器官がまだない肉体のように、霊的感性を受け取る器官が無い霊人体となってしまった。これから迎えようとする大変化は人間の霊人体に本来備わっている霊的感性を取り戻すことが出来る周波に次元が移動する。しかし自分の中にそれを受け入れる器、大まかに言うと愛と謙遜と感謝が備わっていないと泳ぎを知らない者が大海に飛び込まなければならない状態になる。自分の内的なものを準備した者は本質的智慧を戴き救いを得た者と言えるかも知れない。その来るべき時が具体的にどういうものであるかは言いようが無い。ただ、今のこの世での価値、例えば地位であったり財であったり食物を含むものであったりの類は何の意味もなさないことだけは確かだ。天災や災害を防げば済むような内容ではない。刻々と時は迫る。宇宙はそれに向けて最後のプログラムを粛々と進めている。

2008年5月5日月曜日

ある兄弟の証し

久しぶりに説教らしい説教を受けた。一人の国際祝福を受けた日本人兄弟の説教だった。一般に言われる内に障害を持った子供を授けられ、彼を育ててゆく過程に於いて悲喜こもごもの内的経験を中心とした話で、子供について相対者について家族について、理解していないみ言葉の押し付けでない無理の無い自然な形だか本質に通じる智慧の多くを学び取ることが出来た。そこに至るまでの自分の中での葛藤や戦い責め、そして何故自分にと天に問い続けた日々が少なからずあったことは容易に推測できる。前に一度、子供の接し方のことで彼に相談したことがある。結局は親の姿勢が総てを決めることは解っていながら、子につける何か特別な薬は無いものかと、今考えればあまりにも恥ずかしい相談だった。彼にしてみれば親としての自覚が無い、甘え以外何物でもないということを見透かしていたと思う。そういう相談自体、彼に持っていくべきではなかったと本当に申し訳なく思った。彼と相対者、そして家庭の味わってきた辛苦は自分なりにイメージは出来る。しかしその逃れられない感情の数々を魂の中にずっしりと重く抱えながら先の見えない一瞬一瞬を踏み出していく覚悟は本人でしか理解できない。彼の見た感じは飄々として悩みなど感じさせないため何を考えているんだろうと思ったこともあるが、その内面を垣間見たあとはこの兄弟に対して自分は頭が上がらないと思った。しかし彼は明らかに、その環境故に父母様の心情圏に直接入っていけるだろうし目に見える形で天に宝を積んでいる。そしてそれ故にこの兄弟に対して尊敬もし礼も尽くしたい。