2009年12月31日木曜日
真の神の日、初詣
参道に連なる裸電球だけを頼りに、闇の帳が降りきった空間を分け入って前に進む。静まり返った参道に履物を引き摺る音だけが響く。用心に用心を重ねなければ直ぐにも張り出した根っこに躓きそうになったりする。暗闇に身体を進めれば冷気が顔面に抵抗を与える。意識は足元に、感覚は顔面に、ひたすら進むことだけに集中し、暖かく外套に包まれた胸の内は過去への未練も明日への愁いも何も無い。闇の帳が外界なら真っ白な帳が内界に降りている。お社に近付くと参拝する人々の呼気が白く舞っている。その中に割り込めば衣擦れの音を耳にし、樟脳の香りが鼻をつく。太鼓の音に精神を高揚させられるのか姿勢を正しコウベを勢いよくもたげると、思い思いにかしわでを響かせ口をつむぐ。何度か足を運んだ初詣で、みそぎに気持ちを整えられた人々を見るのは心地よかった。まだ明けやらぬ内に受け取るものと、明けて後に受け取るものとは受け取る質が違う。より精神的に深いものは明けぬ内に受け取ることができる。そんなことを思ったり感じたりしていた。教会生活を始めてから初詣はもうしないものだろうと思っていた。それが清平で復元された。清平での業、特に早朝の”祝福の木詣で”は初詣気分そのもので、何か懐かしいような嬉しいような、思わず喜びが声に出そうになったほどだ。連なる裸電球やら、どよめく太鼓の音やら、精神的高揚をもたらすものは何処か似ているものなのだと思った。カウントダウンに打ち上げ花火で正月を迎えたいとは思わない。除夜の鐘を胸に響かせ、お社の太鼓に胸の内を高揚させ、冷たい外気に身を正して神霊を感じながら正月を迎えることができれば、日本人として生きることができる。しかしながら日本人を卒業した私達統一食口はその基準で安堵し喜ぶべきではない。教会に足を運べばそれで善しとしてしまう自分の父母への不孝を改めて、絶対信仰、絶対服従、絶対愛とひとつとなる自分を誓願しながら、新年度に立てる理想像を差し出し、その為の決意と覚悟を魂から供える献身の儀式とならなければならない。まさしく並み居る高次の神霊達が、御父母様の聖席を挟んで左右に並んで謁見する中を、私の魂の全てを差し出し披露する場であり、神様と御父母様が最も耳を傾けられるその時とその場を重要視することで、一年の実りの為の耕しと種蒔きを為すのだ。
今日の想い 128
訓読会のお言葉を受け取りながら、御父母様に最も近いと思っていた私達が、実は何もわかっていなかったと言うことが明らかになったような気がした。確かに神様に対する御父様の願いとして、60億人類を一人残らず天国に連れて行くべきだと思われて当然だろう。御父様の内的霊的勝利基盤は確固たる基盤であり、活動する私達の実力や条件如何を問わず天国は約束されている。しかしながら土地も材料も用意されているけれど、家を建てる方法や時間は私達に委ねられているにも係わらずその私達が何もわかっていないと言う事なのだ。わかっていないから一つ一つの作業までも御父様に頼ろうとしている。傍で呆然と立ち尽くし見ているしかない私達は一体何なんだろう。堕落や罪に対する理解を問われれば原理用語を並べて説明できるだろう。メシヤの必要性もそうであり再臨主もそうであり、全ての疑問に対して説明できるかも知れない。だからと言って60億人類の魂を動かす存在になり得るだろうか。私達に社会経済基盤があり見せて誇れるものでもあれば、関心を向けるだろうし魂への働きかけがそこを通して為されていくかも知れない。しかしながら私達にはそれも無い。見せて誇れる証しが立っていないのだ。自分の中にみ言がみ言として力を発揮すれば魂への変革が為されるはずだ。知に対し情に対し意志に対しての変革が為されるはずだ。現状の指し示す意味はみ言を魂に働きかけるほどには受け取っていないと言うことだろう。おそらく堕落や罪に関する実感も、イエス様がもたらした救いに関する実感も、遥かに特定の宗教やクリスチャン達の方がずば抜けているだろう。私達が、この世の何も解らないし生きる自信も無いが何とかここなら生きて行けそうだからここに来た、と言う者達の寄せ集めで終るとしたら、御父様の知と汗と涙の代価は余りにも大きすぎる。兄弟達の頑なで干からびそうな魂を蘇生するには個の力では無理なのかも知れない。御父様が神様の権限としての審判の刀を抜いて、その魂に突きつけられショックを覚えて初めて、み言の力が及び蘇生されるのかも知れない。
2009年12月30日水曜日
新生人類
この押し寄せる激痛を受け止めながら、受け止めることで嘆きや悲痛を重ねるのではなく、受け止める毎に内的霊的創造の気運を高めるのだ。この身体に激痛が走れば走るほど、私の気運は高まっていく。それ故にこの痛みが有り難い。御父様が打たれて奪ってくる天の方策を私達に示して下さった様に、如何様にも打ってくれと言い放ちながら統一勇士の誇りを持って受け止める。打たれるときは思いっきり打たれるべきだ。悪魔の笑みを持ったその痛みの正体は、私から嘆きの全てを引き出そうと、長く鋭い爪を突き立てて背中の肉片を抉り取る。今年も終ろうと言うこの時に、このタイミングで打たれることの意味を問うことに意味は無い。私に取っては打たれてこそ御父母様と共に歩むことなのだと言う謙虚を再度確認させられ、御父様の栄光を受け取るのではなく痛みを受け取ることを許された私への信頼こそが感謝であると、謙虚と感謝でこの痛みを受け止めてこそ私という統一勇士が自分の中に生きている。そうでありながら、もはや受け止める痛みの向こうに光を確認している。私に押し寄せる忌み嫌う全ての仕打ちは、実のところ御父様が勝利されたオブラードがかけられ、直接的に私に作用することは無い。悪魔が自由にその力を直接的に行使するなら、私の魂は当の昔に吹き飛ばされ粉々にされ、宇宙の藻屑となっていたはずだ。御父様の勝利圏、真の愛の影響圏内に私があることは紛れも無い事実なのだ。新しい年は私達の年だ。真の愛を呼吸できる私達の年だ。たとえ堕落世界に接して浸透している魂の部位が残っているとしても、魂の大半は真の愛の中で呼吸できる真の新生人類なのだ。
2009年12月28日月曜日
上下前後左右
一日の歩みを終えて振り返りながら、内的霊的にどう整理し、そして整理することで自分の位置を確認する必要がある。位置確認は基準となる位置があってこそ確認することができるが、御父母様が立っておられる位置こそその基準点であり、御父母様の位置からの方向性や距離を知ることができる。前が何処であり後ろが何処なのかがわからない限り前には進めない。今の私には、遥か前方上位に立っておられる御父母様を認識してこそ下の位置が決定し、上下が決定されると前後左右が決定される。肉体的な位置感覚を持ち身体の前面に目が付いて、地上の感覚世界をカジ取りする事はできるとしても、内的霊的位置感覚を知らずに内的霊的に存在しているということは、地上に於いて平衡感覚や位置感覚を無くし青盲のままで行動することと同じだ。霊的暗黒の只中で佇みながら不安と孤独に襲われている自己を認識する者に取って、御父母様の存在を知らされることは途方も無い福音である。しかしながら多くの兄弟に取って自分なりの御父母様の認識を良しとし、その認識に多くの誤謬が含まれていることを無視したままで歩むなら、決して良い結果にはならないはずだ。一日の行動をひとつひとつ心に思い起こしながら、そしてその行動に付随する感情の動きをありありと復元しながら、報告祈祷を供える事で整理も出き位置も確認できる。時の流れに任せ成り行きに任せて、何処に辿り着くかも知らない1日1日の延長を見るともなく見届けるのではなく、良心という羅針盤でしっかり内的霊的位置を確認すべく就寝前の瞑想祈祷をなしながら、天によって配慮され起こる事柄を、愛の贈り物という神事として受け止めることができる。とても甘受することなどできないような苦い良薬を、神事として感謝できる自分になってこそ霊的高次への階段をステップアップしながら御父母様という人間理想、家庭理想に近付いていける。生きて起こる全ての事柄に、全ての経験に、取るに足らない些細な事柄であっても、私に対する深い深い天の摂理が働いている。今日一日をどう位置づけるかで、明日の方向性への意志を持てる。
2009年12月26日土曜日
2010
顔を逸らせ逃げの体勢で新しい年に踏み込んだとしても、希望的年とはならないだろう。時は過ぎ行くものだと流れに任せ、いつの間にか新しい年が周囲に見えていたというのも、旧年の業(ごう)を背負ったままであって新しい年には入っていない。それは新年の中で自分だけが旧年に生きているということになる。新しい年にしっかりと踏み込み、更に新しい年の希望的気運を引受けるには、決意と覚悟に裏付けされた新年度の理想像を理想家庭を理想世界を、しっかりと視線の向こうに捉えなければならない。今の環境圏にいつまでも執着するから、訳の解らぬ様々な亡霊に苛まされたままなのだ。執着した者を霊的に見れば、地を這いずり塵を喰らう存在様相に見えるだろう。霊的足を鍛え翼を備えたなら、空高く飛び立つことを躊躇してはならない。攻撃は最大の防御であると言うけれど、リスクに怯えて新たな創造に寄与しなければ、何の為の戴いた今生であり肉体なのかと問われるだろう。確かに小さな店にしてみれば決して少なからぬ拠出はしてきた。しかしそれでもって貢献したと満足すべきではない。利益をはじいてそれを創造とは言わない。その利益を用いて呼び水にしながら新たな社会創造や経済創造を為し、それで初めて創造と言える。2010年度は創造の年だ。自分という理想人間の創造、理想家庭の創造、そして新たな社会経済創造の年だ。内向きであれば滅びてしまう。今あるものに執着すればウジが湧く。堕落海の底深くにも光が届けられている。光として届けられる真の愛がそこかしこに溢れて平準化される。真の愛を真の愛として受け取るものは真の愛の証しを立て、周りの者達はそれを眩しいほどに見上げるだろう。祝福家庭がその証しを立てるのだ。祝福家庭には新年度の希望的気運を引受ける義務がある。
審判式
何一つ妙案が浮かばない状況で、それでも必ず護られ導かれると言う強い信仰を備えるべきだろう。外的なものは全て内的霊的なものの影であると捉え、外的事柄に決して翻弄される自分であってはならない。まさしく今私は神様からもサタンからも試されている。御父母様の分霊を戴いた自分であり、であればこそ御父様の代身なのだと声高に霊界に宣言してこそ、御父母様の勝利圏は相続されるだろう。絶対信仰を備えて、全ての霊を焼付け精誠を込め、目の前の事柄に入魂していく。過去の自分や今現在の自分がサタンの血統圏に縛られて呻吟していたとしても、御父母様によって新生した新しい自分は確実に私の中で大きく成長している。私の中でのこの天地がひっくり返る大変化を、地上に縛り付けられた肉的な自分は感知できない。内的霊的この大変化を、地上的事柄への現実以上に感知できる霊的感性を私達は備えることができる。真の御父母様から放射される真の愛を真の愛として受け取ることができる力を私達は既に与えられている。真の愛を受け取ることができれば真の愛を放射できる。それこそが外的地上的なものや内的霊的なものの全ての能力の根源要素となる。宇宙は既に大変革を遂げようとしている。御父様と一体となった新生した私が主体なのか、或いはサタン主管圏に縛り付けられてこの世の道理とサガに生きる旧来の私が主体なのか、人それぞれがそれぞれに於いて判断を迫られる時がすぐそこに来ている。先ずは祝福を受けたものからその判断は迫られるだろう。ふたりの主人に仕えることはもはや許されない。これこそが審判の時であると言えるだろう。祝福を受けた者であれば、この審判の時を待ちに待った時として喜ばしく迎えるべきなのだ。心と体が闘い続けた幾星霜の魂の歴史に終止符を打つ内的霊的儀式を、神様とサタンが見守る中で遂行される。
2009年12月23日水曜日
今日の想い 127
善神と悪神は相前後してやってくる。まさしくその通りの状況だった。私の経験によると、悪神が先で悪神がひと暴れした後に善神が顔を出すというふうに捉えていたけれど、悪神が跋扈している中で善神が現れた。その従業員は特異な個性を備えていて、呼び寄せパンダのように使っていたが、それはそれとして店の大きな集客力を担ってはいた。何度か話してみて解ったけれど、彼が或る思い込みを持つと、それが独り善がりの性質を持ち他の説得をことごとく排して、戦闘的な態度をあからさまに誇示してくる。悪霊が憑いたように相手を罵り、普段の人懐こい性格は一変する。結局、四半世紀を共にしながらもここ数ヶ月、頑なな恨みを益々固めながら出ていくことになってしまった。辞めて尚、その恨みをぶつけたい様でチンピラのように店に係わってくる。出来れば気持よく別れたいので警察沙汰にはしたくないと思いながら、しかしながらそのハラスメントぶりは無視できる範囲を遥かに超えている。悪態をつく彼が去るようにどう対処したらいいのかと嘆息している調度その時、教会関係のその方はやってきた。ホリデイシーズンで両親が訪ねてきたと言うことで、夫妻とご両親とで店に足を運んで下さった。どうしてこのタイミングなのかとは思ったが、チンピラに対する嫌悪感で手は震え顔は引き攣っていた自分を無理にでも押し殺し、作られたものではあっても満面の笑顔を用意して挨拶をした。せっかくの会食を楽しもうと来られたその期待を裏切るべきではないだろう。おそらく気付かれることはなかったと思うが、私の感情の海は彼の事で荒れ狂っていた。霊感の鋭い方なので本当は何かしら店の異常に気付いたのかも知れないが、全てに満足されて私と一緒の写真まで収めながら喜んで帰って下さった。その後でもひと騒ぎふた騒ぎあったのだが、落ち着いた時に考え始めることはやはり、どうしてこのタイミングで、ということだ。あれこれ思案しながら行き着いた答えは、悪神の業に翻弄されている中での陣中見舞いとして善神の業が為されたということのようだ。そう結論付ければ腑に落ちる。悪神に直接的に係わろうとするのでなく、応援する形で善神が働いたと言うことに関心が行った。その意味はひとつの勝利的基準に到達するまでは直接的に救いの手を出すことはできない、私自身が供えるべき条件、立つべき位置が定まって初めて受け取ることができるものなのかも知れない。彼の行動に揺さぶられているということは彼と同じ次元、同じ目線と言うことなのだろう。私はこの問題に関してひとつの内的ステップアップを要求されている。後でその時のことを振り返りながら、顔でも洗って出直し、もう少し気の利いたサービスを提供すべきだったと少し悔いた。来て頂いたことに対する礼状でも送ろうと思う。
今日の想い 126
謂れのない怒号と煽動を浴びせられる。孤独の中に打ち震えながら内臓がよじれるような感情を覚えるけれど、受けるべき定めならどのようにも甘受しよう。誰もが我関せずの態度を取り、自分ひとりが立ち向かうとしても、誰かに幾らかでも負ってもらい共に立ち向かってくれる期待感を持つべきではない。御父様が孤独の絶頂に立たされながら、あらゆる犠牲を払って一筋の道筋を示されたように、御父母様の息子であると断言できる位置を、このことを通して勝ち取ろうとしているのだ。しかしながら私は決して一人ではない。押し寄せる絶対善霊を背後に控え、私の決意と覚悟に合わせようとしてくれている。どれ程の罵声を浴びようとも、私の内側にまで波立たせる程の作用は不思議とない。ちょうど防弾ガラスに護られて対峙しているのに似ている。そこには御父様が口を固く縛り、目を見開いて私の前で仁王立ちになって庇いながら立ち向かう様を私は見なければならないのだ。御父様が道なき道を開拓された、その道なりに生きている。信仰の度合いと逆説的に、対峙するものは現れる。ゴリアテのように巨大に感じたとするなら、自分の信仰は風に吹かれて飛んで行ってしまうほどにおぼつかないと悟るべきだ。孤高の道と言うものがどんな道だろうと問うなら、あらゆる敵対する魂を前にして、逃げることなく、或いは前もって逃げ道を塞いだ状態で突入することだと、今の自分には言うことができる。逃げたければ逃げることもでき、それ故に逃げ回ってきた過去の自分を知っているけれど、もはや逃げ回っていてどうにかなるものではない事は、流石の私も悟っている。怯える気持を必死で押さえながら、決意と覚悟を声を大にして宣言することで、待っていたように勇気が注入されていく。
2009年12月22日火曜日
意識変革
棚からボタモチ的意識を捨てることができない状態で、絶対信仰と一つになることは有り得ない。何かが起きるのではなく、何かを起こす為に地上生を生きている。選ばれた私であるという選民の立場であれば、み旨に意識的に関わっていない多くの人々の様に、偶然的に起こるとする事柄に後から対処しようとする追随意識を持つのではなく、私達の意識は少なくとも一般人に対して一歩も二歩も先んじていなければならない。意識の先頭に立たれる御父様と、すぐにも同等の基準という訳にはいかないにしても、身に起こる事柄に翻弄され対処するので精一杯の生を生きるために呼び集められたのではなく、御父母様と共に創造理想を目指し、天国を築く為に召命された私なのだと断言して生きていかなければならない。自分の魂の在り様に於いても、この世と同じ悲喜基準で喜び悲しむのではなく、この肉体に同化してしまった感情魂を堕落的なものとして一歩距離を置き、御父母様に繋がる新たな感情魂を育成しながら、天が喜ぶものを私も喜び天が悲しむものを私も悲しむという天的感情を備えていく。祝福の儀式でもあればそれを受けることを通してどういうボタモチが落ちて来るのだろうと思い、蕩減時代を超えたと言われれば苦労をしなくてもよくなるのかと思い、いつも何かのボタモチが落ちてくるのではないかと期待する擬似信仰を繋いでいくなら、肉体存在としての御父母様を視認しているだけのことで、本来会わなければならない内的霊的御父母様との距離は何万光年も離れたままなのだ。御父母様の御前に乞食であってはならない。いつも何か貰えるもの、いつも何か起こるもの、自分の成長や変化はその内やってくるもの、そんなボタモチを期待するのでなく、何かを与え、何かを成し遂げ、自分で自分を変化させる必要がある。結局、自分が意志しなければ何も変わらない。変わらないどころか益々迷路に迷い込む。天の生命、愛、血統が植付けられた、御父母様に繋がる自分の中心に在るものを信じずに何を信じて人生航海の羅針盤とするのだろうか。益々混迷を極めるのは周りや社会だけではなく、自分の精神にこそ混迷を見るようになる。兄弟姉妹を含めて誰もが本質的な御父母様との出会いを為さない限り、混迷の中から浮き上がることはできない。
2009年12月16日水曜日
真の愛
自分に向ける愛、自己中心愛を堕落人間は持っているけれど、それは偽りの愛で本来存在してはならない、愛とも呼べない愛なのだ。み言に記されたものは真の愛をあらゆる角度から説いている。真の愛の完全辞典として、自己中心愛の欠片も無く私の目前に提示されている。み言を手にして訓読する時、完全犠牲となられた御父様の、血と汗と涙にまみれた両手で、血と汗と涙が浸み込み染められたみ言として差し出されたものを受け取っている。本来なら受け取る自分に自己中心の欠片もあってはならないのだ。偽りの愛で汚れた手で受け取り、腐った自己中心的思考概念で紐解こうとするなら、最初から受け取るべきではないと言える類のものなのだ。敢えて私達は受け取っている。私達の中に真の愛に相対するものがあるからではなく、一方的に許可された立場で受け取っている。受け取るべき条件も何も無く受け取っているという謙虚な態度で臨まなければ、み言を受け取ることが出来るどころか讒訴されかねないだろう。御父母様に正しく接することができているかどうかを問うなら、み言によって自分の内面で、戴いた祝福が活き活きと枝を張り葉を茂らせているのを実感しているかどうかだ。その果実こそ真の愛の実と言うことができる。その果実から溢れ出す真の愛の香りを体験した者でしか、真の愛を所有することはできない。真の愛を所有した者だけが真の御父母様が住まわれる本郷、天国に共に住むことができる。この世の所有観念には自己中心愛があぶれ出るほどに詰め込まれ、餌で膨らむだけ膨らんだ腐りきった内臓のように、あらゆる異臭をそこから発散させている。腐った愛と真の愛の区別もつかないほどに愛への感性が麻痺し、とても人間とは言えない地の底で這いずる人間の姿こそ堕落人間なのだ。所有観念を全く持たれない、真の愛の化身を私達は見上げることが出来る。自分の中の全てを解析してみても、真の愛の概念を取り出すことは出来ない。御父様の骨髄の中に入り新たに生まれてこそ、真の愛を所有できる真の愛の概念を取り込むことが出来る。
ホワイトクリスマス
暖かい寮の建物の中から暮れ行く景色を眺めていた。窓ガラスの四隅が曇り、周囲が霞んだ景色は青白く幻想的だった。深々と雪は降り続き、永遠に止むことはない。そう願うのは、雪が降り続く間はすべての事を忘れて降り積もる雪に同化できるから。湧き上がる不安も恐れも雪に覆われ仮死状態になってしまう。雪の白さ一色に内面が満たされて、五感で受け取るものからは何の影響も受けない自分になれる。ある意味での至高体験だった。その当時、キリスト教的事柄に触れたことは無かったけれど、明らかにキリスト教的至高に手が届いていた。教会に通うようになって賛美歌の調べを自分の中に響かせながら、降り積もる雪を見ている時の内面から湧いてくる感情の中に、賛美歌と同じ調べが流れていたことに気付かされたことがある。仏教の慈愛の流れがキリスト教に引き継がれる。キリスト教の神の愛の中に仏教の慈愛は生き続けている。そう思うのは自分の中にキリスト教的な神や愛という言葉はなかったし、その言葉には何処か軽々しくよそよそしさを覚えていたからだ。自分の中に概念として無い言葉が本当は生きていたと言う事は、そういうことだと思う。今年もクリスマスがやってくる。信仰心の無い者ですら、クリスマス独特の雰囲気や景色の中に染まりたいと思う。口では只の行事だと言い、頭では神様やイエス様を否定しても、内面のどこかに相対するものを持っている。イエス様が地上にもたらした神の愛という、人間理想に向かう為の霊的潤いを、人類誰もが等しく受け取ることが出来る。自分に正直であればあるほど、神の子であるイエス様が渇きを覚える人類にもたらされたものが、自分に取ってもまさしく生命の水であると確信するだろう。深々と降り積もる雪を消灯時間が過ぎても見続けていた当時の内面様相を、褪せるどころか益々明確に、今の自分の内面に思い起こすことが出来る。内面に思い起こす降り積もる雪は、暖かい。
2009年12月15日火曜日
帰郷 (二)
義父は足を悪くして医療用のベッドで寝起きしている。そのベッドが大きい為同じ部屋に二つのベッドは置けないようで、義母とは別の部屋で休んでいる。義父のベッドの横に布団を敷いて休むことになった。直ぐにも寝息を立て始めた隣で、静まり返った空気に身を沈めるように横になった。静まり返った空気とは対照的に、自分の内面に声をかけてくる多くの霊を感じている。何か自分がここにそぐわない、新参者のようにも思えた。横になって休むのに肩身の狭い思いがする。でも十分それは納得している。祝福を受けた者として氏族や先祖に対してのそれなりの位置がありながらも、自分は何もしていない。氏族復帰に対する精誠条件も想いも明らかに足りない。責められて当然なのだ。申し訳ない思いを差し出すしかなかった。そしてこの小冊子を今回手渡すことが、今の自分に出来る最も大切な氏族復帰の為の儀式だった。明日の朝ここを発つ前に必ず行使することを誓った。あまりにも小さな条件には違いないが、その決意と覚悟を備えることが先祖の霊に取っては砂漠の中での一杯の水に等しい。悲しくも無いのに、横になったままの私の目からは涙が溢れ出る。霊達の供養が為されている。私自身がどれほど申し訳ない存在であっても、彼らにしてみれば霊的生命への橋渡しは私と私の家族しかいない。彼らに取って選択の余地はないのだ。私にすがるしかない切実さを思い知った。義父は朝五時には上体を起こしていた。私が目覚めたことに気付くと、唐突にも、送られてきた御父様の自叙伝について話し始めた。戦争を身をもって体験してきた者にすれば、平和の重みは揺ぎ無いものとして内的に培われている。決して手放しで賛同し応援してきた立場ではなかったし、娘を奪われたようで御父様へのわだかまりも未だにある。しかしながら平和と銘打った題名に惹かれるように読み進めていったことを義父の口から直接聞くことが出来た。一通り話を聞くと自然な形で小冊子に触れる事ができ、これも是非に目を通して欲しいと伝えて手渡した。彼は両の手でうやうやしく受け取りながら机の上の本立てにある自叙伝の隣に収めた。机と本棚がみ言が収められた祭壇となり、端向かいにある仏壇の存在感が幾分寂しく感じられた。
帰郷 (一)
今回の訪問で兎に角小冊子を渡そうと決意していた。自叙伝はネットでオーダーして取りあえず両方の親の手に届いてはいるはずだが、受け取ってどう思ったかはわからない。その上に小冊子を渡すとなると場合によっては嫌な顔をされないとも限らない。自分の親にはそれでも押し付けて帰ることもできるが義理の親ともなると躊躇するものがある。しかしながらどういう状況に出くわそうが必ず渡すと決意を備えて一時帰国に出発した。普通なら旅程の最後を空港が近い義理の親のところに持っていくのだが、決意が鈍るとまずいと思い最初に義理の親を尋ねた。私の故郷と同じ県内にあるその家は、新幹線駅からタクシーで十分もかからないところにある。駅を出てタクシー乗り場に向かうと、風は少しあるけれど昨日の雨模様とは打って変わって晴れ渡っていることに気付いた。昨日、義弟の嫁に連絡しただけなので直接親に話してはいない。何度も何度も尋ねた家ではあるが、何度尋ねてもそれなりに緊張してしまう。両親ともどちらもよく出来た人で最初に会うときですら自分達の息子の様に接してくれた。タクシーを降りて家の前に立ち、その時の印象を思い出しながら玄関に向かった。躊躇を取り払おうといつも勢いよく入っていく。そしていつもお母さんが物音に気付いて飛び出してくる格好だ。促されるままにテーブルに着くと後は流れに任している。大抵話し好きのお父さんの相手をしながら頷いていれば時間は経っていく。御父様と一つ下だと思うが本当に元気だ。相対者の親も私の親も、足が悪いだの歯が悪いだのはあるけれど基本的に元気だ。親を放っておいて地球の裏側で生きてこれたのだから、私としては護られてきた。近況を話したり伺いながらも、いつどのように渡そうかと気を揉んではいたが、決意に対する霊界はその夜働いた。
今日の想い 125
現在の自分の認識に満足し、その認識を宛がいながら限られた貴重な時を刻んでいる。生きることの基準である自分の認識が間違っているとは恐らく思わないだろう。み言を訓読しながら、み言の理解をもその認識を用いて行っている。本来み言が自分の認識の間違いを示さなければならないものを、逆に自分の認識でもってみ言を測っている。み言の自分への働きかけを正しい方法で受け取っているとは言えない。み言はみ言、自分は自分という関わり方を食口ですら捨てきれずにいる。自己否定という言葉を自分を傷つけ痛めることの様に捉えてきたことも事実で、自分を痛めることで罪の償いが為せるというのが自己否定なのだと認識してきたが、み言に関しての自己否定と言うのは、全てに対する自分の認識を根底から否定する、疑ってかかるということだと思う。実は兄弟ほど、頭の固い者はいない。中途半端にみ言をかじっているものだからそこに間違った認識が植付けられているにも係わらず、自分なりのみ言の理解を自分の歩みにも相手にも押し付ける。私達は自分の認識を常に疑ってかかり、認識の違う相手の言葉も先ず受け取ってみることが必要だ。御父母様を戴いているという事以外自分は何も解っていないという認識の位置から歩みを進めることが謙虚という意味に違いない。み言に対して本質的理解を得ていないから何とか受け取るみ言が自分の中でほどけ、その真の意味を差し出すようにと求める姿勢こそがみ言に対する正しい姿勢だろう。み言が自我とひとつになって魂を作り変え、堕落的外界から作用を受けて翻弄されてきた過去のそれとは違い、新たな魂は魂が主体となって外界に働きかける。
2009年12月12日土曜日
私の故郷
一年ぶりの故郷は更に寂しさを増していた。彩を失った裏山や刈尾山、耕作を放棄され荒れ放題の田畑、もともと家屋の少ない集落でありながら空き家も増えている。隣の家にうちの親と同年代の老婦人が住んでいて帰る度に顔を出していたが、既に子供のいる町の方に移ってしまっていた。そんな寂しい状況におぞましい事件が追い討ちをかけて、故郷は正に死に体だった。人が寄り付かないと言うことはそれだけで運勢を殺ぐ。スキー場もありキャンプ場もあるが、季節季節で人が集まると言うことよりそこに住んで養うだけの包容力がそれなりにあり、居を構えたいと思わせる魅力を備えていなければならない。確かに包容力も魅力も無いのだろう。しかしそういった事は見出され創り出されるべきで、その要素は隠されたものとして奥深くに眠っている。結局は人なのだ。人も含めて生かすも殺すも人間次第なのだ。この地に対する想いをどれだけ持ち、どれだけ祈り、この地の中に飛び込んで苦楽を共にする決意を供えた者がこの地と一つになれる。一つになれば創造の力が芽吹いてくる。土が教え風が教え、水が教え空気が教えてくれる。しかしながら、この土地の本当の価値を知る者は、この地で生を受けこの地で生涯を全うした多くの先祖が、その代々に積み上げてきた叡智を知っている。幾重にも幾重にも積み重ねられた叡智の上に私は立っている。彼らがどれだけ苦労してきたか知れない。その苦労を乗り越える為にどれ程の魂の知恵を要したか。外的な知恵に比べることもできない魂の知恵、積み上げた叡智こそが先祖が残してくれた宝なのだ。交通の便がいいだとか、誇る産業があるだとか、風光明媚だとか、そんな外的な目に見える魅力に群がる者達ではなく、耕作するに肥えた土地でもないこれと言った魅力は無いこの土地に育まれ積み上げられた内的霊的宝を見ることができる者だけが、この土地に住むことを許されている。御父母様に最後までついて行く者が少ないように、この土地で生涯を終えようとするものは少なく、ある意味選ばれた者達なのだ。
2009年12月5日土曜日
今日の想い 124
深刻な問題を内に抱えているとして、頭を抱えている責任者も多いし兄弟も多い。普通の食口感覚であれば憂えるのは当然だろう。しかし我々と同じ憂える感情を御父母様も持っておられるかというと、それはちょっと違うような気がする。御父母様が親であると言うことを私達は忘れてはならない。子供が自由な存在であれば、子供自らの自由意志で親を喜ばせたい、親の為に生きたいと思うのは当然だ。何処の親が子供の自由を奪い、奴隷的服従を子に望むだろうか。御父母様も絶対服従は望んでおられるけれど、奴隷的服従を望んではおられない。子供が成長すれば親と違う意見が生じてもなんら不思議ではないだろう。どれほど頑固親父であっても、親父の意見に反して異を唱える子に対して、そこに親を思えばこその想いを見て取れば、表面的には子に怒鳴り散らしたとしても、その想いがどれほど嬉しいだろうか。ある面子供にそれだけの深い親への想いを見たくて、理に適わない言動を子に吐き捨てる場合もある。頭ごなしに怒鳴りつけながら、しかし決して子供がしゅんとなって黙って頭を垂れる姿を見たいとは思わない。本当は自分が負かされて親の面子を捨てざるを得ないのが嬉しくてしょうがない。子を真に想う真の親とはそういうものだと私は思う。皆には問題と映るのだろうけれど、御子女様には御父様を超えて欲しい。御父様を超えてこそ御父様は安心されるはずだ。私には微笑ましくも思えるし、より深くより高い新たな心情の次元にワープすることを信じて疑わない。無機質のピラミッド的組織や関係は、そこに心情の入る隙間が無かったとしたら、それによって作られる世界はどれほど寒々しい世界だろうか。真の愛主義であり心情主義であるという世界観を私は誇りにしている。それは無機質を有機質に変え、花を咲かせ実を実らせる。上に喰ってかかったとしても、御父様への深い想い、兄弟食口に対する想いが背後に熱く流れているなら、それも当然あっていいと思う。
OX に対する考察
アダムとエバの養育者として、どうして天使長ルーシェルが立てられたのだろうか。そもそも人類始祖に対する養育とは一体何なんだろうか。私達はアダムとエバの実情も霊的存在の有り様も、アダムとエバに対する養育というその意味も把握してはいない。心魂の目で見るということが理解できずに、この世的外的な概念しか理解する能力を持たなければ、その意味するところを理解することは無いだろう。外的な概念でイメージできる、私たちがそう捉えているそれらの意味は、象徴的な理解にしか留まらない。み言の意味するところを真に理解した者であれば、ルーシェルを養育者としたのは間違いで、誰か他の天使にしていればこのような悲劇は起こらなかったろうと言う様な、たわいも無い、無知も甚だしい意見が飛び出てくることは無いだろう。ルーシェルを一方的に悪者扱いしてはいるけれど、ルーシェル存在がいなかったらそもそも人間という存在は発生してはいない。人間という魂存在の根幹を担ったのがルーシェルであり、神様の実体対象という、自由存在としての自我を植え付ける過程で間違いが生じたはずであり、しかしながらルーシェルが関与しなかったら人間は動物の種族の一つでしかなかったろう。自分が自我存在であり、自我存在として魂活動を為し得ているのは、それが神様の意に適う適わないは別としてルーシェルの働きが為されたことを証明している。人間という存在が自我をもった存在である、即ち人間存在にルーシェルが関与していると言うことを紐解いてゆけば、御父様が話されるOX理念を捉えることができる筈だ。人間はルーシェルの関与を通過せずしては人間存在として地上に現れることは無い。しかしルーシェルの関与を通過すれば必然として堕落本性を備えてしまっている。この解決できない矛盾を解決するために来られたのが救世主であり、その使命を引き継がれたのが再臨主である。地に堕ちてしまったルーシェルの星である自我、そのX存在の中にO存在は内在できない。しかし真の父母の真の愛、そのO存在の中でルーシェルの星である我々人間存在の自我、X存在は神様の実体対象として光輝くことができる。
(あくまで個人的考察であり否定されて当然です。私の妄想以上の何物でもない唯の日記です。)
(あくまで個人的考察であり否定されて当然です。私の妄想以上の何物でもない唯の日記です。)
魂の拠り所
自分の魂の拠り所が何処にあるのか。通常生活を歩む上で、人間は何らかの関心を常に抱いて暮らしている。このひっきり無い取り留めの無い関心が魂の中で朝から晩まで続く。この関心が一体何によって発せられているかを知らずに暮らしている。ある事柄に引き付けられる自分がいるという事実だけを受け取りながら、それが人間なのだろうという暗黙の認識と、その背後にある認識し得ない霊の分野への参入動機を意識の外に置かれて、ただ外界の引力に魂をゆだねて生きている。その場合、魂の拠り所は外界の私に向かう引力として働く得体の知れない存在なのだ。しかしながら多くの者はこの世に生きているうちは、その存在に対して関心を向けようとはしない。許された限られた期間を終えて霊界の住人になるとき、先ず自分の一生を見せられながら、肉体を脱いで魂存在として霊界に生きる上で地上で培ってきた魂の拠り所が何処にあったのかを衝撃的に受け止めなければならない。衝撃的というのは、拠り所である魂の担い手を醜い存在にゆだねていた事実を突きつけられるからだ。醜い存在の有り様そのままを自分の魂様相として受け継ぎながら、醜い存在が支配する領域で霊界生活が始められる。真の父母に帰依した我々は、魂の拠り所が本当に御父母様にありみ言にあるのか、事あるごとに内省してみなければならない。魂活動の根源生命がみ言から来ているのかどうか、その意味はみ言が無かったら、御父母様がおられなかったら、私は死んだ存在になると言い切れる自分になっているかどうかだ。み言に距離を置き、御父母様に距離を置き、教会に距離を置いて、復帰途上の自分なりの生活に没頭すれば、それは魂の拠り所を、悪魔が支配する外界の引力にシフトを変えてしまっていると言うことだ。何も見えない暗黒の中に投げ出されたままで、献金だみ旨だと責められるままに自分の感情に対して奴隷的に歩む期間はそう長くはない。魂の拠り所を見通せる段階に至れば新たな翼を用意できる。足かせを外されて新たな使命に生きる。魂の拠り所を見通せない段階でああだこうだと言うのは不平不満であり反旗を翻さないとも言えないが、足かせを外され新たな翼を用意したものが口を閉ざし、目を塞いでいるのは、本当の奴隷でしかない。我々は奴隷ではないし、魂の奴隷であってはいけない。
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