2010年1月2日土曜日

御父母様を見上げながら

人間としての理想像、私の理想像を御父母様の中に見ている。その感覚を得たことが悠久の時を彷徨ってきた魂の救いだ。協助と言おうが輪廻と言おうが、私の魂の中に今生限りでは培われない、明らかに現世を超えた過去生で培われたものを担っている。その現実をどれ程否定しようとしてもし切れない。自分の中の何が理由でこれ程までに目の前の事柄に対してうろたえ、感情を揺さぶられるのだろうかと考え込んでしまうが、他の人であれば何のことはない取るに足りない事柄であっても、私に取っては生き死にに関わる事柄以上の負荷をそれに対して覚えている。魂の何処かに錆びついたかぎ針でも引っ掛けられ固定されたまま動けないのか、翼を傷めた小鳥のように、広い空を飛び回る自由を取り上げられている。身動きできない、羽交い絞めされた魂は、何がそうしているのかその正体を視ることは許されず、何度も何度も生と死を繰り返しながら疲れ果て、今生に於いて焦燥し切っている。おぼろげにでも理想像の在り様を垣間見ることができ、そこに辿り着く僅かの希望でもあればここまで疲れ果てることは無かったろう。しかしながら、訪ね歩き彷徨い歩いた末に、御父母様を戴いている。人間としての理想像、私の理想像を、戴いた御父母様の中に見ている。御父母様への視線を、ただ一つの瞬きさえ惜しむ程に注視し続けて、理想像の輪郭をより明確にし、その御姿と二重写しとなるほどに慕い続け侍り続ける。その理想像との距離があまりに遠くとも、その光の光源を追い求めることを断念して、何か他の容易い理想像が見いだせる訳ではない。唯一御父母様への想いで内面を満たす時にのみ、希望と言う言葉が私に鳴り響く。例えどのような仕打ちを受けようとも、例え無視されようとも、御父母様へ向かう私であってこそ安息圏に留まることができる。

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