2011年6月30日木曜日

今日の想い 331

地上界という感覚世界で、私達が死に対して抱いている概念は感覚世界のみの概念であり、感覚を超えた世界、つまり霊界から見た死は誕生を意味する。地上界での死は霊界での誕生であり、感覚世界に身をおいて見たり経験する死と異なり、死をもって霊界に誕生するその超感覚的な死の意味を感覚的に問うことはできない。この世の何一つとして移り行き変わり行く時の流れに逆らえるものはない。一瞬と次の一瞬は既に変わっていて何一つ同じものは無い。移り行き変わり行く時の流れに身を埋めているにも係わらず、昨日見て触れたものが今日も変わらずに見て触れているという感覚世界の幻想の中に生きているから、いつまでたっても死に対する不安と恐れから逃れることはできない。川を見ながら、昔と変わらない川を今日も目にしていると思っているけれど、一瞬として留まらない流れで同じはずは無い。それを変わらないものとして見ているのと同じ様に、外界の存在の輪郭に惑わされて絶えず変わり行く超感覚の部分を見落としている。私という意識が感覚によるものよりは感覚を超えたものへの重要性、現実性をそなえることができれば、感覚という幻想に惑わされずに内的霊的なものを主体にして生きることが出来る。しかしそれが決して楽しいものでも喜ばしいものでもなく、忌まわしくも避けたいものであることも事実だ。様々な霊が入り込み自分の醜さや汚らわしさとして渦巻いているのを見ざるを得ない。内的霊的なものへの意識を曇らされて感覚世界の幻想に生きていれば見ずにすむものを、感覚を超えた意識を備えれば備えるほどサタンや悪霊を現実として私の中にも外にも見なければならない。しかしサタンや悪霊に翻弄されている私こそ実態だ。だからこそ救いが必要であり、祝福が必要であり、み言葉が必要であり、御父様が必要なのだ。そこまでの意識が私に備わってくると、死に対するものの捉え方は随分と変わってくる。死よりは私自身の方がよっぽど恐ろしいと思うだろう。

2011年6月29日水曜日

先輩に会う (一)

久しぶりに先輩食口に会ってきた。親が心配なので日本には努めて帰ってくるようにはしているが、東京の方はいつも素通りだった。経費も嵩むしどこにも寄らず、まっすぐ田舎を訪ねて親の世話をした方がいいと思ったからだ。今回は成田広島便が取れなくて、仕方なく東京に寄ることになったのだが、そのお陰で会うことが出来た。朝に宿から電話を入れると、娘さんが受話器を取った。私の説明を終えて本人に会いたい旨を伝えると、それは父が喜ぶと気の利いた返答を返してくれた。しかし夜勤のために今寝ているので、起きてきたら電話させるようにするということで番号を伝えて一度は電話を切り、今午前十時をまわったところだからもう少し時間が有るなと確認した矢先、レンタル携帯から呼び出し音が響いてきた。まさかとは思ったが、寝ているはずがどう知り得たのか、先輩食口からの呼び出しだった。もしもしと言い終るか終らないかのうちに、何々さんでしょと聞きなれた高音が耳に飛び込んできて、こちらが説明する間もなく向こうから一方的に懐かしがられ、そして一方的に会う手配も時間も指定して電話は切られた。確かに先輩はこんな性格だったと思い起こすと、呆気に取られながらも二十年経って今尚変わらないところが微笑ましく感じた。いざ会うことになると相手の視線に私はどう写るだろうかと急に心配になってくる。体形も随分変わったし、頭も顔つきも年以上に老けてきたので、会った時の印象で残念に思われたらどうしようと、見合いにでも行くような気持ちになった。そんなことはどうでもいいと自分を納得させて、報告すべき事柄を箇条書きに頭の中に並べていった。滅多に会えないと思ってここ二十年分の伝えたいことを残さず伝えたかった。山手線の駅から二百メートルくらい歩いたところに指定されたホテルはあった。ロビーは広く落ち着いた雰囲気の場所だった。約束時間の十五分前に着いて、広いロビーをまわりながら腰掛けている人々の顔を伺って行ったが、まだ着いていないようでそれらしい顔は見当たらない。しかしひとまわりして幾分心配になった。それ相応の年恰好の人は結構いる。なんせ二十年の年月が過ぎている。声のトーンは同じでも見かけは相当変わって居られるかもしれない。そんな心配は杞憂だったと思うほど、昔のままの若々しい先輩がキョロキョロしながら昇りのエスカレーターから顔を覗かせ、私を認めると左手を上げて足早に近付いてきた。

2011年6月28日火曜日

今日の想い 330

蒸し暑い東京の街を移動しながら、たまらなく熱いせいで理性の働きは弱められる。私にとって東京の街が何と誘惑の多い街かと改めて思い知らされた。別にネオン街に足を踏み入れるのでなくても、男性を刺激するファッションは巷に溢れていて、視覚に飛び込むものに辟易させられながらも何食わぬ顔で足を運ぶ周りの男性が聖人に思えてくるから不思議だ。改めて思わされたことは、日本を出てアメリカで歩むことでどれほど私は霊的に護られてきたかということだ。確かにアメリカでも都市部では肌の露出が激しい女性は多い。露出に関してはアメリカの方が日本より激しいかも知れない。しかし私が西洋の女性を見て、それがどれほど際どい出で立ちであったとしても、私の中に惹かれる衝動は今までのところ起こり得なかった。敢えて他の兄弟に尋ねたことはないので、それが私だけのことなのか或いは日本の兄弟誰もがそうなのかはわからない。しかし私に関する限り、目を背けたい衝動は働いても惹かれる衝動は起こらない。そこに何か私の堕落性に関わる秘密にされている事柄があるようで、見届けられるものなら見届けたい。外的なことを言うなら肌の色が異なることによるものか、体形によるものか、或いは目の色なのか顔面の造りなのか、それともより内的な、民族的性格的なものなのか言葉によるものなのか、私の裸を晒すようで恥ずかしい気持ちはあるけれど、私の過去生の魂たちであり血の中に罪として積み上げられたものが無意識のうちに私の感覚的刺激として対象に求めているものを、日本の土地での私には見てとれる。昔、先輩食口が話してくれた出来事の中に、御父様が来られてみ言葉を聞きに集まった姉妹のひとりが短いスカートを履いていて、御父様の前でそれを注意すると、そういう目で見るあなたの方がおかしいと逆に注意を受けたと話していた。それを宛がえてみると、刺激的なファッションがどうだという問題よりも見る私に問題があるわけで、道行く人々を同じ親を持つ姉妹として対することが出来ずに、それよりも嗜好的、あからさまに言うと情欲嗜好的対象として捉えている私がいるということだ。私の血の中に厳然と流れている犯してきた罪の結果が、穢れた衝動として感情魂の表面に染み出るように表出している。日本に置いておくには余りにも関わってきた罪が多すぎて、堕落性の中に溺れてしまって戴いた祝福の生命が捨て去られる危険故に、私は日本から引き摺り出されたのだろう。アメリカで歩むことの開放感は私の堕落性からの開放感だ。日本に行けば、日本の土地に染み付いている私の因縁的なものから脱することは容易ではないにしても、ここアメリカでは因縁的なものは軽減される。キリスト教の霊的なものがこの土地には生きていて、私にも生きて働く聖霊がいて情欲に振り回されることはない。罪の大きさ、堕落性のしぶとさを思い知らされるにつけ、生きて私に働く神霊の恩恵を深く感謝せざるをえない。

今日の想い 329

過去を把握し、未来を把握し、そして今を動かしているのは御父様しかおられない。感覚世界の背後を見通され、感覚世界を操ってそれを提示している霊的存在を主管され、人間を導き救い開放し、神様を救い開放されておられるのは唯一御父様だけだ。どんな神学者、人類学者と名のつく者であっても、知恵が新たな知恵を曇らせて真理をますます複雑な迷宮の中に押し込めるのみで、過去の本質、未来の本質は永久に見届けられないことを指し示して括ろうとするなら、彼らこそが悪魔の申し子だ、666の意味する存在だと言われても仕方が無い。彼らは人間からその霊的理想を曇らせて、地上的物質的な繁栄や肉体に限っての喜びに人間を向かわせ貶めている。ルーシェル存在が人間の魂の感情の部分に働きかけるなら、彼の配下にあった或る霊的存在は人間の思考の部分に強烈に働きかけている。現代の自然科学的思考を誰もが疑わずに概念形成、認識のための根底に置いていること自体、既に人類は666によって蝕まれていると言える。堕落人間に欲として感情に働きかけるものは、その現実性からサタン、ルーシェル存在を捉え易いけれども、思考に働きかけるものには堕落人間の知恵への憧れを当然として垣根を備えてはいない。己の欲を主管できずに、或いは正当化して、手当たりしだい貪ろうとする者をルーシェル的悪果として見る様に、己の知恵に酔い、或いは知恵あることを正しい武器として、手当たりしだい論理を展開させ悪も善もなく封じ込めようとする者を666的悪果と見ることが出来る。私の中に巧妙に働きかけ、霊的理想に向かわせるのではなく地上的なものに貶めようとするものを、み言葉によって研ぎ澄まされた目で見届け、見逃すことのないようにするべきだ。私の発する言葉の中に愛によってひとつにしようとする想いが含まれていて、愛の言葉として瑞々しいだろうか。或いは私の発する言葉の中に裁きによって区分けし分裂させようとする意図が含まれていて、裁きの言葉として乾ききっていないだろうか。御父様のみ言葉にあるように、サタンは大きいもの、下がっていったものをすべて裂いたが、天は小さいもの、下がっていったものを全て合わせて大きくする。裂いて分かとうとする私なのか、或いは合わせてひとつにしようとする私なのか、私という存在がサタンの側にあるのか神様の側にあるのかをはっきりと知るべきだ。

2011年6月25日土曜日

今日の想い 328

何処を起点として西といい東というか。北といい南というか。御父様は、反対になっているので南と北、東と西が分かれていることに皆さんは気づかないと話されるけれども、普通東西南北は地理上の方角のことをいい何処を起点とするかによる。だから南と北が分かれ、東と西が分かれているという言い方には誰もが首を傾げるだろう。ここには明らかに御父様の東西南北の概念と、地動説を当たり前として起点によって異なる私達の東西南北の概念とは違うことを意味している。では御父様の概念はどうであり、どう理解したらいいのだろうか。東西南北を揺るぎないものとして位置付ける為には、揺るぎない起点を位置付ける必要がある。現代に於いては自然科学的な思考を誰もが信じ、ことごとく自然科学的な認識に支配されているから真の被造世界への認識、それは霊的認識なくしては有り得ないが、それを得るための真の認識に対する問いや衝動が人間の中に見られない。御父様の認識へと辿り着こうとするなら、真の認識に対して問う力や衝動力が要求される。真に対する追求力を私の中に見るのでなければ、理解できないみ言葉はいつまで経っても首を傾げるしかない。先ず私の自然科学的認識を否定してみることだ。物質の究極を分子であり原子であり素粒子だというのを何の疑いも無く信じているけれども、それは地上的な一つの説明の仕方だとしても、そう信じることで分子であり原子である存在から私に働きかけてくるものは無い。自然科学の基礎として学び、当然として疑う余地も無く認識の基底に置かれているものは私に取っては幻影に過ぎない。唯物的幻影に過ぎないから科学と宗教を私の中で既に相容れないものとしている。科学と宗教の統一を原理講論は説いていて、私達は納得したように受け取っているけれど、私の中の譲らない認識として唯物的幻影が居座っている。科学と宗教の統一は私の心と体が統一されなければ有り得ない。私達の原理観は多分に唯物的なものであることを認めなければ、み言葉理解の過程で益々御父様の認識とかけ離れていくことになる。東へ東へと進路を取ってきた人類ではあったが、西ではなく東へと向かうことの意味が確実にあったはずだ。太陽は東から昇り西に沈んでいく。地球は西から東へと回転している。御父様は地球は本来逆に回転すべきであり八の字を描きながら本来の回転、東から西への回転に戻っていくと話される。地球の内的霊的なものとしての東があり西があるから、人間の地球に於ける東と西が意味を持つ。地球の内的霊的なものとしての東が何であり西が何なのか、東と西が反対になっているので分かれていることに気付かないなら、反対になっていなければ分かれていることに気付くのか。御父様が予言的に語られたイーストガーデンでのみ言葉は、平和の主人、血統の主人として八大教本に入っている。一行読んでは疑問が溢れ、また一行、また一行と読み進めるほどに疑問が溢れかえって理解するには至難の業だけれども、問い続け尋ね続けることで御父様の認識に必ず追いつけると信じている。東西南北の認識も読み解くことが出来れば、確実に一つの霊的次元が見通せてくる確信があって、真の認識に対する衝動を押さえ切れないでいる。

2011年6月23日木曜日

今日の想い 327

祝福されたからといって天国に行けるか。行けない。皆それぞれに於いて天国像があって、祝福を受けることで霊界に行ったときそこに行けるかと言うと、行けない。祝福は条件的なものであって、堕落性を脱ぎ罪の一点の曇りもない私になったとき天国に行ける。条件的なものとして善の行いをし、御父様の願いであるみ旨を歩む。そうすることで自分の身は清められていく。何となくそんな風に信じている。天国に行くと言うことと、信じると言うことが対になっている。しかし信じて義とされる時代を超えて、侍って義とされる侍義の時代を私達は生きている。天国に行きたい地獄には行きたくないと言うことと、侍ると言うこととは対になりえるだろうか。つまり天国への想いを深く持てば持つほど、侍ることの力となりえるだろうか。私達に一般の意味でいう天国など意味はない。一般的天国像への想いは私達の侍る力にはなりえない。大母様が話されるように確かに天国があり、地獄がある。地獄で呻吟する先祖達がいる。しかし天国に行き、地獄に行ったのではなく、肉体を持とうが持つまいがそれぞれの人間という宇宙そのものが天国であり地獄なのだ。私そのものが天国様相の宇宙であり或いは地獄様相の宇宙なのだ。今までも触れてきたように天国は行くところではなく築くものだ。太陽があって太陽の光が隅々まで届けられるように、良心があって良心の光が私と言う宇宙の隅々まで届けられればそれは天国様相の宇宙だ。太陽の光を強くし、良心の光を強くするためには、私の良心は太陽存在である御父様の息子であり娘であると断言でき、父子の因縁を築くことで御父様から相続されたものが私の良心の根源である。だから心情が重要視され、心情と対になるものが侍る力だ。人間それぞれに良心は備わっているけれど、それは神様が内在する良心ではない。やがて神霊を植え付けられる為の条件的限界的良心だ。だから人間それぞれの良心は神霊を植え付けられることをひたすら待っている。しかし祝福を受けた者は御父様の神霊を良心の中に種として戴いている。太陽存在のように光放つ良心として育ててゆき、正午定着の位置で光を届ける良心になる。私達が祝福を受けたことの意味を十二分にわかって、慕い侍りもし誇らしくも思う歩みをしなければ、私の良心は本来の光を放てず燻ぶり続けるままだ。

2011年6月21日火曜日

今日の想い 326

私達がみ言葉をもって成長し、御父様の願いに応えていれば清平の摂理は必要なかったと話される。ようするに清平の摂理は二次的であって、ある意味遠回り的摂理であると言えるのかも知れない。決して少なくはない献金を差し出しながら先祖を解怨し祝福させる。多くの日本食口は言われるままを信じ、穿った見方をすれば鵜呑みにし、生活費をぎりぎりにまで抑えて清平へ詣でるけれど、ウェスタンの場合状況は幾らか異なってくる。本人が納得しない限り、幾ら御父様の指示と言えども行動には出ない兄弟の方が多いだろう。献金摂理の一環として受け止め、できる範囲で参加すると割り切っている兄弟も中にはいる。七代解怨しようが二百代解怨しようが、何らかの実感として私に働くものを見るのでなければその数値が意味するものはわからない。それをただ信仰が足りないと片付けられるのかというとそう単純ではないだろう。本来必要なかったものが必要とされ、D-DAYまでに果たすという御父様の指示事項としてはっきりと言い渡された今、本気で先祖解怨と先祖祝福の意味をウェスタンにもはっきりと理解でき実感できるものとして証を立てなかったなら、私は信じているから従うし、貴方が信じないなら仕方がないと言い放つ姿勢は全体摂理を慮っての態度ではないだろう。熱心に清平詣でをしているなら、他の腰の重い兄弟達がその恵みに預かりたいと思えるような証を立てるべきだし勧めるべきだ。そうしてあくまで私達は全体勝利を目指すべきだ。私達の多くは個人信仰に埋没していて、他を想い、思い遣り、与えたい愛として投げかけるものを持ち合わせてはいない。同じ食口でありながらも他を寄せ付けない態度は見るに悲しい。天にもっとも近い場所に居ながら、その場所に相応しくない者がいると思われる私になってはいないか、自分にも問いかけた。兄弟の中には、より大きな善を為しているなら小善に気を使う必要はないと本気で思っている者もいる。御父様の願いに応えることは大善であるから、この世の人格的には欠落点があったとしても許されると思っている。更にはみ旨を為すに於いて人間的な道徳であったり人情であったりは妨げとなる、と言うような認識もある。私が為しているのが大善であるか小善であるかは私が判断するものではなく、神様が判断するだろうし周りが判断するものだ。私の中の良心を認識できない者に限って自分の善を測ろうとし、善の行動が喜びだという認識はない。

2011年6月12日日曜日

今日の想い 325

一個人それぞれが外的肉体的に小宇宙であるといえるように、内的霊的に小宇宙でもある。真理に対して人それぞれに理解度の差が出て受け取り方が異なることが、宇宙を限定的なものにしている。地上的な意味での宇宙は、人間が肉体を持っている限りに於いては、何を信じようと真理をどう理解しようと同じ外的宇宙が広がっていると捉えているけれど(そう思っているだけで本当は違う)、内的霊的な居場所である私の世界、私の宇宙は、私の真理に対する理解度、受け取り方に限定される。真理を内的霊的にどう受け取るかが私自身の自由度を決め、活動範囲を決めている。信仰しない自由も信仰の自由だと言って憚らない者は、霊界に於いては身動きすらできないだろう。この世で地上的限定的生(時間であったり場所であったり)を送りながら、外的に限定されることで内的霊的な広がりへ羽ばたく翼を得る。様々な困難、試練に遭遇しながら内的真理への理解を深めていく。信仰者とは本来、生活力が弱く、何か頼れるものに息継ぎを求めようとする者ではなくて、未だ私という暗闇の世界を果敢に開拓していく真理への開拓者だ。聖書を読み進め、御父様のみ言葉を尋ねる時、その言葉の背後にどれ程の圧倒される真理が眠っていることだろうか。ただ言葉面をなぞるだけではなく、私には隠されていた死んでいたような真理が目覚めて、私の中で生き生きと蘇る体験がなければ私は信仰者とは言えないだろう。その期待感でみ言葉を受け取り、それのみならず受け取るみ言葉が今日一日の生活体験の中でまざまざと蘇り働く。そこまでみ言葉にかかわって初めて、み言葉を受肉していると言えるはずだ。そうして私の内的霊的小宇宙は、真理で打ち立てられた現実世界そのものであり、霊的世界があると言われるのだからあるのだろうと言うようなそんな頼りないものとはならない。御父様が教本の中に全てがあると事あるごとに語られるように、私の宇宙を開拓する全てがこのみ言葉の中にある。多くの人はこの内的霊的世界を未だ認めようとせず、み言葉を受け止めた兄弟ですらはっきりと認識していない場合が多い。旧約的意識のままでは、何々しなければならない、何々しなさいという縛りだけでみ言葉や信仰にかかわり、私の意志する意識をもって私という宇宙の開拓の生を送ってはいない。清平に集う兄弟たちの、出会う多くの顔が沈み疲れているのはそのせいだと思う。本来内的霊的に目覚める場が、更なる縛りの場となるなら、どれほど御父様は心痛いことだろう。

2011年6月11日土曜日

今日の想い 324

それにしても、昔に比べればニューヨークも随分綺麗になった。マンハッタンはハドソン川の対岸から眺めるものだとばかり思っていたが、蒸し風呂の状態でも丸一日町の中を歩いてみるとそれなりに愛着も湧く。当時、ビルの壁面はおろか地下鉄の車両まで落書きだらけで、ゴミと異臭にまみれていたこの町は、バブルを経て一変した。落書きはどこにも見当たらず、一桁の大通りもそれに交わる二桁の通りにもゴミはない。古いビル郡もゴミの中に建っていればかび臭い汚いだけの代物だが、周りが小奇麗に片付けられるとアンティークの趣すら備え、歴史の重みを感じ取れるから不思議だ。前市長もさることながら、市民のこよなくマンハッタンを愛する想いとニューヨーカーとしての誇りがこの町を復活させた。街行く人々もキャピタルシティーワシントンのようなお役所的堅苦しさは無く、結構人懐こいニューヨーカーだと思えたのは収穫だった。緑が多く、自然に囲まれて暮らしているワシントンの人々より、灰色の壁に囲まれ、無機質な直線鉄骨の中で暮らしているマンハッタンの人々の方が人情がある。でも昔とさして変わっていないのが人々の行動テンポだ。相変わらず忙しないし、車が途絶えればさっさと通りを横断してしまい信号に従う人など見当たらない。言葉も早いし取り決めも早い。そして相手にもそれを要求してさっさと片付ける。今日回った物件が明日には無いと言うのがセールスの常套文句なのかと思ったが、事実そうらしい。息子がここで暮らすとなると、今までのように距離を置いて、ああだこうだと好き勝手に話の種としてだけ関わるような無責任は許されないだろう。この街に少なからず影響を受けるだろうし、この街が息子を成長させもする。この地に汗を染み込ませこの地に涙を滴らせる。この街の風を受けこの街の陽を浴びる。この街の気に支えられこの街に裁かれもする。どのようにも関わり合いながら、ひとりの個が確立していく。良くも悪くも、その地で生活するとはそういうことだ。そこの水が合うとか合わないとかよく口にするけれど、流れに敢えて逆らわず、かといって流れに埋まって消え去るのでもなく、ただの成り行きでここに暮らすのではなく因縁がありミッションがあるからこの地を踏むのであり、運命的なこの地の計らいが出会いを紡ぎ、外的な節目をして内的な節目が準備され、全てが共同的に化学変化的に働きながら、見事な形で彼の個が確立されていく。奉献式で神様にこの子を捧げたように、その願い通りに陰に陽に、内に外に導かれて、神様の主管のなかでひとつの人格が確立されていく。その信頼を寄せる為には謙虚に頭を下げてお願いするしかない。受け入れられるかどうかは親である私にも掛かっていて、もはやこの地に対し、突き放した言い方などできようもない。

2011年6月10日金曜日

今日の想い 323

今年の夏も昨年に劣らず暑い。用事があってニューヨークの町を歩き回ったが、コンクリートとアスファルトで固められた巨大都市では熱の逃げ場はどこにもない。風も吹かないマンハッタン島という巨大蒸し器の中で、詰め込まれてうごめく人々を着衣のままで蒸し上げる。この暑さにはどんな人種であっても勝つことはできない。白も黄色も黒も赤も、さすがに健脚のニューヨーカーを自負する人々でもこの暑さに足取りは重くなる。ビルとビルの谷間に佇んでいても移動しても、濃い汗が私の体中滲み出てきて、特に冷却が必要な頭の方は汗が滝のごとく滴り落ちる。ひたすら汗を拭うことに懸命で、田舎者の物珍しさからの周りを見回す余裕すらない。息子も仕事の関係でこの町の住人になるけれども、私には好んで雑多なこの町に住むことを選ぶ人の気が知れない。息子も仕事だからという理由以上に、この町に惹かれるものがどうもあるらしい。親としてのいろんな不安が交差して、この町で新たな天的出会いがこの子を待ち受けているとは今の段階では思えなくて、否定形の言葉ばかりが渦巻いていたが、容赦ない照り返しの熱で蒸し上げられるとさすがに思考も停止してしまって、もうどうでもいいという気分になってしまう。気温が上昇して高熱の中で生きるということは、どうも思考人間の悟性的な生き方は変化させられるのかも知れない。感情的といえば悪い意味に捉えるほうが普通かも知れないが、内面がそのまま生活行動として出るなら、善なる感情の持ち主は善人として、悪い感情の持ち主は悪人として現れて、実に単純明快な善の世界、悪の世界に振り分けられるような気がする。確かに今はどんな極悪人であっても心根に持ったものを隠して善人面で善人に紛れて生きることができるが、コントロールしていた悟性が熱で機能しなくなり、感情そのままが表に噴出せばその人の心根は隠そうにも隠せないだろう。そんな天の意図があっての気温上昇かどうかは全く仮定の仮定に過ぎないけれど、2013年を目前にしてこうも毎年猛暑が続くということは、そこに何らかの摂理的意図があって当然だろう。心地よさの状態が続く限り、沈殿している悪の要素を敢えて掻き回そうとは誰もしない。掻き回されなければ総清算は為されない。掻き回されることで見えてくる私の中の不安の本質は、私の中に息子への信頼の欠如があることだ。どんなことがあっても息子を信じると腹をくくれば、それが唯一天の側に息子が立つ為の親としての条件に違いない。些細な行動もほじくれば、それが自分への不信から来ていることぐらい誰でも見抜く。見るべきものを回り終えて、自分への小言のひとつも口に出ない親父のへたばり様を見ながら、息子の目は笑っていた。

2011年6月9日木曜日

今日の想い 322

希望は与えられるものではなく自らで見出すものだ。暗闇の中に僅かな希望の光を捉えた者が、その光の光源を手繰り寄せていくことが出来る。闇夜に六等星、七等星を探し当てるように、有ると言えば有り、無いと言えば無いとしか言いようが無い状況でも、それでも有ると信じて諦めずに求める力、その力を備えた者が僅かな希望の光を見出し、手繰り寄せながら希望の実体を手にすることが出来る。信仰を持つ者であれば、食前のお祈りを捧げるように、全ての与えられる事柄に対する感謝の想いを捧げようとする。普通自分に益となるという認識の上で感謝を捧げるけれども、しかしその認識は私の感情に捕らえられている場合が殆どだ。痛いとか苦しいとか、その嫌気気分に左右された認識に立てば、自己の感情を超えた事柄に対する感謝は捧げられない。希望の光を見出そうとすれば、この自己の感情を超えなければならない。闇の中を手探りしていけばありとあらゆる感情を味わい続ける。闇とは静かな深淵だと思うのは外から眺めた状態を言うのであって、その中に飛び込めば逃げ出したいほどのありとあらゆる嫌気感情が渦巻いている。全ての嫌気気分を甘受しながら、荒れ狂う感情の渦の中心に光は点在する。様々な嫌気気分に幾重にも被われ、曇らされ、闇に隠されるように希望の光は点在している。私達は感謝できるものを感謝するのは当然のことだ。そんなことは誰にでも出来る。私が統一教の信仰者であると誇らしくも自認できるためには、感謝できないものを感謝する力、感情を超え感情を説得して暗闇を恐れない力を私の中に備えて大きくしていくことだ。私の感謝できる力は、私の謙遜な心情と対になっていて、より感謝できる人はより謙遜な人だ。そして感謝の人で終わるのではなく感謝できる力を希望の光を見出すことに使わなければ、神様の創造性を備える人間理想とは異なり、自己満足的な信仰観に没してしまってただ御父様の高みを見上げるだけの存在で終わってしまう。御父母様と共に天国に入るとは言えないだろう。

2011年6月7日火曜日

今日の想い 321

神様が天と地を分けられたとき、天と地の間に何の混乱もなく、天を司る霊と地を司る霊がすんなりと分けられたのだろうか。神様が光と闇とを分けられたとき、光と闇との間に何の混乱もなく、光を司る霊と闇を司る霊は当然の如く分けられたのだろうか。太陽に上る存在と、月に留まる存在を分けられたとき、太陽の霊と月の霊は何のいさかいもなく分けられたのだろうか。では月が、残されて地球になる存在から分離するときにはどうだろうか。創造過程に於いて創造に関わる天使たちや霊の存在たちは、神様の愛がアダムとエバに対するのと同じように降り注がれ、感謝と喜びを持って創造のみ業に参じたのだろうか。アダムとエバに注がれる愛を自分に注がれている愛と比べ、天使長が愛の減少感を覚えたと堕落論にはある。僕に対する愛と子に対する愛の違いは明らかだ。天使長とアダムとの間にはっきりとした愛の位階の違いが存在するように、天使存在の中にも位階ははっきりとしているはずだ。天使長という長と付けられる位階表示があることがそれを証明している。従ってそれぞれの位階に応じて愛の違い(それは前に述べたように意識の違いが対になっている)もあるはずだ。地上に於いてカインとアベルが一つになる過程でも様々な葛藤や衝突が繰り返されたように、神様が天と地を分けられたときも、光と闇とを分けられたときも、あらゆる創造段階に於いて二分され、新たな存在様相として一つになる為に、葛藤と衝突は異なる次元で繰り返されて来た事はその通りだと思う。見事な有機的存在としての地球や宇宙を眺めるとき、一瞬にして何の苦も無くこの統一的状態が繰り広げられたのではなく、葛藤と衝突を経て、それぞれの次元で愛が勝利してひとつになり、その結果を今の姿として地球や宇宙に見ていると言うのが真実ではないだろうか。真の家庭であればカインもアベルも無いというのは、悪の表示体としてのカイン、善の表示体としてのアベルという意味ではカインアベルは無いと言えるのかも知れないが、創造過程に於いて二分されては統一的な新しい存在様相として創造発展してきたように、その意味ではカインとアベルの位置は、より創造されより発展する為には必要だと言える。復帰の歴史は再創造の歴史であるから、創造に倣ったプロセスが復帰摂理の根底にあるはずだ。

今日の想い 320

妻をドクターオフィスに連れて行くとき、目を塞ぎたい光景を目にしてしまった。中絶反対のデモンストレーションなのだが、そのやり方が何とも醜く、彼らの良心を疑いかねない。助手席にいる妻が目に止めないように急いで目を伏せるよう彼女に告げたが、視野の隅には写ったかもしれない。右翼の街宣車を思わせるようにバンに大きな二本の星条旗を立て、遠目にはサンドイッチのポスターかと思われるような派手な拡大写真を張り巡らし、数人のドクターの名を写真入で掲げ、このドクターは何人、あのドクターは何人始末したとデカデカと書いてある。妻が通うドクターオフィスの並びに彼らが名指す施設があるのか、道沿いには街宣車で鼓舞されるように人が群れていて、胎児が切り刻まれた拡大写真をそれぞれに掲げて、通る車にアピールしている。街宣車に張り巡らされたサンドイッチのようなポスターも、彼らが掲げているポスターと同じものだった。反対を叫ぶのは彼らの自由であり彼らの良心でもある。私の個人的感情からも信仰からも明らかに彼らと同じ反対の立場だ。でもあのやり方は良心を装った悪魔の姿がはっきりと見て取れ、良心を喰いものにしているようで吐き気さえ覚える。この彼らの行動で、結果的に名指しされた医師の中絶医療を阻止できるのであれば、それは善しとされるのだろうか。あの見るに耐えないおぞましいポスター写真を掲げて、畜生の為せる事だと訴えれば、水子の霊は浮かぶのだろうか。人々の恐怖心に訴えかけて、地獄の恐ろしさを植え付けることで善の行いに向かわせようとするなら、審判の神は立つのかも知れないが、愛の神様が立つことはない。私は恐れを行動の動機としているのか、愛の衝動が動機となっているのかを見極めなければならない。周りを見ながら自らの行動を決めようとするのは多分に恐れを行動動機としている私なのだとはっきりと知る必要がある。デモの彼らの意志に働きかけているのは愛の神様ではない。許しの神様でもない。旧約を遥かに遡る頃の、堕落して良心さえ備えることが出来ない頃の、神の名を借りた地獄の管理者を頭として備えている低次元の集合体だ。その日一日、吐き気と戦いながら、この光景を目にした意味を問い続けた。

2011年6月4日土曜日

今日の想い 319

私達の教会が、愛に溢れた愛の教会だと自信を持って言えるように、私達皆の愛を投入し培ってきたものが教会の中に見えるだろうか。今の教会には愛は無いと背を向ける兄弟がいるのかも知れないが、さまよいながら愛があるところを嗅ぎ出して群れる者とならずに、愛が薄いと思うなら愛を吸入させて復活させるべきだろう。愛の授受に於いては私が主体になって愛を投入しない限り、教会はいつまでたっても私の教会にはならず、私は寄生した魂であり教会は仮住まいに過ぎない。自分が御父様への信仰を失わない限り教会がどうあろうがさして変わりは無い、と口に出さずとも内心思っている兄弟は意外と多い。でも家庭がひとつになれずに親子関係が偏ったものとなるのと同じように、御父母様がいて兄弟姉妹たちがいて統一家としてなりたつなら、ひとりひとりが御父母様の親の愛を受け御父母様を慕い侍ろうとするように、兄弟姉妹たちとの間にも愛を深めていくべきだ。父子の因縁は築こうとしていても、愛を父子の間に留めて横的に展開できないなら父子の因縁も極めて脆弱なものになるだろう。愛は留まるものではなく、どこまでもどこまでも広がっていくものだろう。愛がどこまでも波及するのを見ながら、縦的な愛が後から後から溢れ出て尽きないものであることを実感する。父母の香りを味わった者は父母の香りを周りに漂わすのは自然の流れだ。蜂が花に寄ってくるように、より深い愛の味わいを味わいたいが為に吸付けられるように教会に人が集まってくるのも自然の流れだろう。お金も持たず個人的なものは最小限に留めながら、それでも父母の香りを味わい漂わせながら苦楽を共にしていた、あの頃の教会には今の教会にない香りが漂っていて人は集まってきた。人々を引き付ける愛らしい雰囲気があり父母の香りが漂っていた。御父母様は人類の御父母様であって教会内に留まる御父母様ではない。個人と家庭のため教会のためだけの御父母様ではない。でも人類に目を向けておられても個人と家庭と教会に投入された愛と精誠は生き続け、流れ続けている。家庭は家庭をまもろうとする者の中に、教会は教会をまもろうとする者の中に、御父様の愛と精誠は生き続け、流れ続けている。立てられた中心を中心に働いておられる。上っ面の言葉だけではなく、中心とひとつになるという意味を本当に理解するなら、教会は復興するはずだ。

2011年6月3日金曜日

今日の想い 318

多くの批判を浴びながら、それでも書き続けることに意志を差し出したのは、個体的動機として自分自身を粉々に砕くためだ。打たれて粉々に砕かれて、それでも残るものが私の中に見出せるなら、それこそが明日へと生き延びる私だろう。書き記していることが正しいのか間違っているのか、善と捉えられるのか悪なのか、それは受け取り手が決める範疇のことで、私は受け取り手の判断を変えようとも思わなかったし説得もしなかった。そんな力も位置も無い。ただただ批判をそのままに受け取って私の中で消化するだけだった。全体的動機としては、書き記した私自身の表象に対して同調を得たいという思いを否定して、批判の矢面に立とうとも受け取り手の深く思考することの動機となり、意識の光を当てる機会となれればそれでいいと思った。み言葉はみ言葉そのままに受け取るべきで、付け加えるべきでも差し引くべきでもないと言うのはその通りだ。しかし悲しいかな堕落的なものがフィルターになっていて、御父様が意味されるみ言葉そのままには受け取れないでいるのが私たちだ。私は私のみ言葉の理解によってのみ、私の思考、感情に光をあてて表象することができる。だから私の理解が未熟なものであれば、表象も未熟なものであるのは当然だ。批判を浴びて当然だという位置に立たなければ、日記といえども皆の目に晒すべきではないだろう。統一食口は日記を書くようにと御父様が話されたけれども、公に晒せば既に日記とは言えないのかも知れない。それにしても私の記述が物議を醸すほどになっているとは思いもしなかった。確かに私自身も書き続けることだけが優先されてきて、周りが見えなくなっていたのかも知れないし、自分自身もバランスを失っているのかも知れない。以前一度区切りを付けようと思ったことがあったが、その時は言い訳が先に立ち自分自身に対して何とも納得がいかなかった。D-DAYまでが一つの区切りだとは思っているが、私に異を唱える人々の感情も多分に受け取り、それを消化できずに抱え込んでしまえば潰されそうになる。

今日の想い 317

愛を投入するなら、愛は愛の証しとしての花を必ず咲かせる。その確信があるなら、待つことも愛だろう。今すぐにでも投入した愛の見返りを見せてくれと、待てずに言い寄るなら、投入した愛は貶められそれは既に愛とはいえない。待つことが長ければ長いほど、愛はますます愛らしくなる。愛しても愛しても、それでも愛の実りを見いだせなくても、それは私が予想している以上の大輪の愛の花に違いないと、更なる期待感を寄せながら愛を高めて待ち続ける。人は神様を裏切ってきたのだろうか。裏切った立場から神様に向かうなら、確かに神様を裏切ったはずだ。しかし神様は私を見て裏切り者だと言うだろうか。いや口にはされずとも裏切り者だと思っておられるだろうか。堕落した人間を見られて神様は落胆の涙を流されただろうか。涙の流れるまま、愛する者から裏切られた孤独の中に沈まれただろうか。落ちる涙をすくい取りながら、落胆の涙は今までも流さなかったしこれからも流さない。流すはずが無い。愛の相対として更なる期待感を寄せながら愛を高めて待ち続ける。その、子としての人間に対する神様の言い分を神様の叫びとして私の中に届けられる。落胆の涙ではなく愛を高める喜びの涙だ。神様は愛を高めてこられた。裏切りを裏切りと取られず、更なる期待感を寄せられて、神様の愛は結果的に高められた。愛はますます愛らしくなった。私の見る神様の印象は、愛の喜びに涙される神様だ。恨みの涙でもなく悲しみの涙でもない、それを否定されて愛する喜びに涙される神様だ。これらの言葉が空しく響く長い長い時が流れて来たけれども、真の父母が地上に立たれたことで初めてこれらの言葉は息を吹き返し、私の中に流れ込んでくる。時々、どうしてこんな些細なことで涙が流れるのだろうと思うときがある。訳も分からず涙するときがある。そういう時、確かに神様が尋ねて下さっている。私のなかで神様が涙しておられる。愛する喜びに咽んでおられる。

2011年6月2日木曜日

今日の想い 316

普通の人はこう考える。死ぬ前に死んだ後のことを心配してどうにかなるものではない。死後の世界、霊界があろうが無かろうが、地上で決められた自然環境と決められた肉体様相で暮らすように、あるならあるで決められたままに、無いなら無いで消え失せるまでだ。そのようにわからないことを当然として、わからないから人間なのであってそれがわかるなら人間ではないと思っている。み言葉を聞いた兄弟達は、勿論み言葉を信じて生きているので、霊界はあるという認識に立ってはいるけれど、その認識が現実性を帯びて生活に関わっているかというと首を傾げる。あるという立場には立っているけれど極めて曖昧な認識であって、生活感情自体はさしてこの世の普通の人と変わりない。私達は真の父母様を戴いているけれど、霊的な認識が曖昧なので、この世の宗教指導者に向かう信者の気分と変わりないし、中には私のスターだと言うに留まった兄弟もいる。み旨として足を地に付けた歩みが必要とされるのに、霊的なことばかりを口にしていれば一向に摂理は進まないというような感情が私達の中にあるが、それは霊的なものを誤解している。本当の霊的な認識を備えるなら霊は極めて現実的であり、霊的なものを排除して摂理は進まない。み言葉の理解も御父母様の認識も、霊的に理解するものであり、霊的認識に至らなければ真の父母という言葉のみの抜け殻を響かせているだけだ。この世で解かれるものがあの世でも解かれるとあるように、この世でしっかりと意識の光を照らして認識したものだけがあの世で力となり形を成すのであって、地上で霊の目を開けるように用意しなければ霊界で目を備えることはできない。今の時代圏が極めて祝福されているのは、御父母様の勝利圏に入って塞がれていた霊界がことごとく開放されたことだ。霊的感性を備えることができれば透き通るように霊界事情が見渡せ見えてくる。霊的感性は霊的無知を克服することで備えることが出来る。天使長ルーシェルは堕落の張本人ではあるけれど、別の名を黎明の子、明けの明星と言われるように、ルーシェルほど新しい夜明けを開く光の担い手としての智の力を備えた存在はいない。ルーシェルが神様の前に悔い改めたことの地上の人間に取っての意味は、私達は光の担い手としての智の力を得て霊的無知を克服できると言うことだ。み言葉や御父母様や霊界に関する曖昧な私達の認識も、非常に明快なものになっていく。御父様のみ言葉の骨格である原理を再度学び直し、特に後編には見落としていた多くの事柄が、私の意識の光に黎明の智の力が込められることで見出されるだろう。

2011年6月1日水曜日

今日の想い 315

私がいてもいなくても神様は神様であり御父様は御父様だ、自分のなかでそう結論付けた訳ではないけれどその気分に漬け込まれていないだろうか。私が歩もうが歩むまいがみ旨成就は私と関係の無いところで為されていく、と思っていないだろうか。私が笑えば神様も笑い、私が泣けば神様も泣く。私が意識することを神様も意識し、私が手を付けることで神様も手を付けられる。私が失敗すれば神様も失敗し私が勝利すれば神様も勝利する。それが私は私であると言い得る自我を供えた私の中心的気分だ。確かに復帰歴史に於いては中心人物が立てられ、彼らはそれぞれの摂理に於いて中心的役割を果たしてきた。中心人物を他の者に置き換えることも比べることも出来ないほど、彼らの役割は大きかった。しかし旧約時代の中心人物と新約時代の中心人物との役割の違いは明らかで、更に成約時代に立てられる中心者、特に蕩減の時代を超えた後天時代に立てられる中心者の意味合いはまるっきり違ってくる。旧約時代に於ける人間の在り様は今の意識基準から大きくかけ離れ、彼らの中に私は私であると言い得るほどの自我は備わっていない。人間性の復帰が段階的に為されて自我はますます明るくされて今に至っている。特にイエス様が地上に来られて愛を説かれた対極の意味合いは、自我に光を当てられたことによる自意識の強烈な目覚めだ。より高い愛への認識はより深い自我の意識と対になっている。復帰された兄弟達もそれぞれの内的霊的内容によるけれども、自我の明るさと私が神様を左右する中心の位置にいるという認識とが対になっている。全体の勝利が私の勝利でもあり、私の勝利が全体の勝利でもあると言える中心位置にいる私なのかと問うことが、私の自我の明るさを測ることであり、私の自我は神様の心情に直結している。中途半端な明るさで自己中心、自己保身に陥るのではなく、全てを明るみに晒すみ言葉の光で神様に直結している自我を認識することだ。そうすればぐだぐだと意味もない理由付けをして、御父様と距離を置く私になることはない。誰でもないこの私でなければ神様は救われないし御父母様も報われない。傲慢とも取れるその中心的意識を統一食口は備えて捨てるべきではない。