2011年8月4日木曜日

今日の想い 351

高原の南側に臥龍山というなだらかな山が横たわっている。下から見ればどこが山頂になるのか、二つ三つそれらしい頂があるので良くわからない。春ともなると山桜が咲いて山のあちこちが薄桃色に滲み、見る者の心を春色に染めてくれる。今では林道が頂上の手前の清水が湧き出るところまで敷いてあるので、車で二十分もあればそこに辿り着ける。帰省する度にブナ林の中の林道を軽で登って、雪霊水と仰々しく筆書きされた看板とは対照に、チョロチョロとしか流れない湧き清水を口にして帰ってくる。しかし小学校の高学年になるまで、この山に足を踏み入れることは一度もなかった。高学年の遠足で初めて山頂に上って降りてきたが、禁足の山を初めて制覇し、それまで何が住み着いているかわからない恐ろしさに怯えていた私は、やっと山の恐怖から少しだけ解放された。二年生か三年生の頃、教室の隅で休憩の間の雑談として神隠しの話が耳に入ってきた。村の誰かが神隠しにあったらしい。人々が見ている前で急に消えたのかと最初は思ったが、山から出てこないと言うことだった。その話から弐、参日経って、魂が抜けたような様子になって見つかったと言うことだ。神隠しと思ったようだけれども見つかってみれば、要するに狐に化かされた話だった。そんな話は学校でも、よく茶を飲みに来る大叔父の話の中にも、よく出てきた。だから山は恐ろしいところで、足を踏み入れてはならないと信じていた。糞団子を食べさせられたり、泥団子を食べさせられたりするらしく、見つかっても正気に戻るまで暫くかかるようだった。おそらく低級霊による霊現象だ。春の山菜取りの時期や秋のきのこ取りの時期にそんな話はあったので、腹を満たそうと軽い気持ちで山に深入りしてしまうとそんな目に会うらしい。山で首を括った話もよく耳にしていて、そんな素振りも見せなかったのにどうして、、と言うことになる。そうなると確かに山には何かが居るらしいことはわかる。数年前この山が全国的に有名になった。失踪事件があって結果、身体の部分部分がこの山から見つかった。きのこ取りに入って落ち葉を払いのけながら探しているうちに、転がっているのを見つけたらしい。子供の頃の話から暫く山に関わるその手の話はとんと聞かなかったから、科学万能の時代に入って影を薄めたのかと思ったが、その事件は魂を食(は)み血を求める地の霊が未だに健在しているのを見せ付けられたようだった。

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