2011年8月16日火曜日

今日の想い 355

み言葉の月刊誌の挿絵のように、理想家庭を絵に描いたような家庭を築くはずが、付き付けられる現実は地獄の様相だ。苦しい胸の内を吐露するなら、み言葉は私に取っては胸に痛すぎる。愛のみ言葉が裁きの言葉としてしか受け取れない現実を抱えながら、それでもこの道を行こうとするところにこそ決意と覚悟は本物になるのだろう。地獄を受け止める腹が据わる。終りを知らない責めを受け止め続け、心がボロボロになりながらも着いて行くのは、そう思わされることが今の私への神様の愛に違いないという信仰だ。愛がいつも優しい顔をしてやってくるとは限らない。冬のような厳しい愛も真の愛に違いない。ああすべきだった、こうすべきだったとは、もはや言うまい。過去に撒いた悪い種の実りを今味わっているとしても、それでも私は過去に主管されるべきではない。この痛みが、この苦悩が、新たな産みの苦しみとなって明日を創造している。カルマ(因縁)を過去に見て感情しても時は遡れない。今こうしている内にも、時は前へ前へと刻まれ前進し続ける。カルマの穴埋めの為にこの痛みを味わうのではなく、この痛みは未来を築く為に願って受けているのだ。私の決意と覚悟が本物になれば、私の腹が据われば、霊界は従わざるを得ないだろう。待ち構えている絶対善霊は私の絶対信仰、絶対愛、絶対服従が本物かどうかを見ている。協助せざるを得ないと彼らが突き動かされたとき、どのようにも働きかけてくるはずだ。その衝動に点火するかどうかは私にかかっている。私が子供を置き去りにして天国に行こうとは露ほども思っていないように、多くの人類を地獄に置いたまま喜び安堵される神様であるはずがない。次元が違うとしても、この痛みと苦悩は神様の痛みと苦悩でもある。私は神様の痛みと苦悩を共有している。この痛みと苦悩は、神様が私を信頼しておられる証しだ。

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