2011年8月11日木曜日

今日の想い 354

連日百度を超えていたのが嘘のように八月に入ると気温は下がった。日中の日差しはまだまだ強いが、朝晩は肌をさするほど涼しい。昨日、店の食材の買い出しに車を走らせていると、落ち葉が二枚戯れるように舞い降り過ぎ去っていった。一瞬のことだったがその情景が日がな離れず、秋が近づいているのを教えたいのか、或いは対になっていたことに意味があるのか、どうでもいいようなことだけれど気になった。盛夏を超えて、日中の強い日差しにしな垂れていた木々の葉も、今はしっかりと葉表を太陽にかざしていて鮮やかだ。大気の熱が抑えられると光は煌めき、生命活動を軽やかにしてくれる。滞っていたものが流れだして流動的になると、同じ生命要素を共有している私の身体も軽やかになる。二枚の葉が風に舞うように、私の心も軽やかな身体からさらに舞い上がって、心の旅を始めようとしている。食口であればいろんな地域を回って来ただろう。私も北海道と沖縄だけは行かなかったが、殆ど全国を渡り歩いた。その土地土地で景色が異なり、水や空気が異なり、雰囲気が異なるのを感じながら、背後にある霊的なものが異なっているという感性を学んできた。その感性で様々な霊的領域に入っていくことができる。どれだけ皆が認識しているか知れないが、その感性が私を自由にしてくれる。ひとつの心配事や悩みの中に没入してその領域から出ることができないということは、別の領域があり、足を踏み入れることができるいろんな世界が広がっていることが見えないし解からないということだ。それは別の領域に逃げるということではなく、別の領域には別の領域の見方があり知恵があるということの発見だ。私達は次元を超えて旅をする自由人だ。真の愛と真理がそれを可能にしてくれる。コリント第二の聖句が私達の中に生きている。悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っている。別の領域への扉が開く瞬間がある。それを逃さなければ様々な叡智をいろんな領域から得ることができる。二枚の葉が風に舞うように、或る者に言わせれば明日の知れない身の上だけれども、自由に飛び交いながら内的霊的ネットワークを渡り歩いて、あらゆる知恵を享受している。

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