2011年8月8日月曜日
今日の想い 353
御父様には申し訳ないけれど、献身生活を振り返って見て、色鮮やかで快活で心躍るような出来事として思い出されるものは浮かんでこない。どちらかと言うと、暗い重たい沈むような思い出ばかりが浮かんでくる。霊界に行ったとき、もし御父母様の御側に呼ばれるようなことがあって、何か一つ感動的な思い出でもと話を勧められたとしても、私には何も浮かんでは来ないのだろう。場を白けさせるのが関の山だ。地上で集合をかけられる時はいつもそうだったように、霊界でも後ろの隅の方で目立たず小さくなっているに違いない。快と苦の担い手である私の魂に私を委ねてしまっていたら、とっくの昔にこの道を踏み外していただろう。もちろん前にも記したように、Fの路程では出ていくことを考えない日がなかった程であり、後になって、事実一度は飛び出したことがある訳で、魂は神とサタンの間を常に揺れ動いていた。教会から距離を置いている多くの食口たちは、み言葉に躓いたのでも御父様に躓いたのでもなく、歩みの過程で味わされ魂に積み上げた感情をどうすることも出来ずにそうなっているのだと思う。自分を何とか正当化しなければ生きることもできないので、御父様や教会のあらさがしをせざるを得ない。しかし責められる事柄に事欠かない教会にも少なからず問題はあると思うが、全体の責任を負っている私であるなら他人事のように眺めてはおれないはずだ。もし教会に留まっているとしても眺めたままでいるなら、教会に距離を置いている兄弟とさして変わりはないだろう。私の信仰で留まっているのではなく、私の置かれた立場で為すべき事があるので留まっている。その使命が何であるかを魂の深みの先にある神霊に訪ねながら、はっきりと自覚して、使命に応えることのできる魂の在り様に変革させていかなければならない。私の魂が快と苦の担い手に留まることで良しとするのであれば、教会に留まる意味はない。み言葉を読み、祈りの中で御父様を口にする意味もない。
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