2011年8月14日日曜日

霊と魂を混同している

私達がみ旨に対する時、先ず私達の前に立ちはだかるのは私の気分の問題だ。私達の心の中に、様々な気分が低く重く垂れこめた雨雲となって、良心(神)という太陽存在を遮っている。家庭復帰、氏族復帰、子女教育、為さなければならない多くの事柄を自覚してはいるけれど、悲観という暗雲に遮られ浸透され、金縛りにあったように身動きできないでいる。難しいという悲観気分で、為さなければならない事柄に常に対していると、出来ないものとして常套化されてロックされる。そうやってロックされた墓石が、もはや近づき難いものとなって私の内界に癌のように留まる。私の霊界は為せない事柄の墓標で次第に埋め尽くされていく。あれもしなかったしこれもしなかった、あれも出来ないこれも出来ない、悲観は更に悲観を呼んで立ちあがることすら出来ないでいる。氏族の解放、民族の解放、人類の解放の旗頭となるべき祝福を受けた私が、私自身が解放されず気付いてみると囚われの霊になっている。清平詣でをしたなら全ての問題が解決されるのかも知れないという期待感を持っていたけれども、受動的な待ちの状態の他力本願、心の中の悲観気分を何とかしない限り、状況は変わらないという思いに次第に落ち着いていく。或るとき急に、憑きものでも取れたように悲観気分が一掃されて、良心の願いのままに動じ制ずる私になれるかというと、それは殆ど妄想に近いし危ない。私の願いであるかのようなその状態は、多分に堕落的魂が作り上げた妄想概念に留まっている。気分の問題や、思い描く私の理想や天国は、魂内に留まっている。私という存在が魂内に留まる限り、魂を超えて魂を支配している霊を見ることはない。私という存在は魂の存在である以前に霊の存在だという真理に対する無知がある。魂を超える霊の存在、霊への影響をみ言葉から受け取れないなら、私はいつまでも堕落的魂に漬け込まれたまま、悲観と楽観を漂う根なし草だ。御父様が話されるように、私達は魂を霊だと思っていて霊を見通せないでいる。

0 件のコメント: