2011年8月7日日曜日
ナイアガラの滝 (1)
五十メートルの落差を毎秒六千トンの水量が落下し続ける。それを目にし続けたときに人間の魂はどういう反応を示すのか。ナイアガラの滝は成田からワシントン直通便の運航路線上に位置し、天気のいい日は上空の機内から見下ろせる。ワシントンから陸路をとると、ペンシルバニア州を北西に上ってエリー湖に出、エリー湖に沿うように北上していくと瀑布の水煙が見えてくる。片道七時間前後の運転だ。何処までもなだらかな丘陵と牧歌的景色が続き、ニューヨークへの道と比べて車の量も極端に少なく、長時間運転でもそんなに苦にはならない。今までに二回ほど往復したことがある。どちらも一泊しただけだが、トロントまで足を延ばすのでなければ滝の他はさして一見に値するものはなく、それで十分だ。世界中から観光客が押し寄せてしっかり観光地化しており、自然を満喫するというよりは企画されたアトラクションをこなして見学を終わる、というのが普通だろう。しかしそれだけなら、視覚に飛び込むものを魂の奥まで届けて、私に働きかける本質として受け取れるまでには至っていない。日本もいろんな滝があり、私の田舎にも三段峡があって幾つかの滝が見られる。前にも水の路程が人生の路程に重ね合わされると書いたことがあるが、水滴一つ一つの路程を人生と重ねるときに、滝の落差を駆け下り或いは飛び降りる覚悟と変化を強いられる、そんな運命的時があることを見ざるを得ない。人生に於いてそうであり、血統的流れに於いてもそうであり、更に人類歴史に於いても覚悟と変化を強いられ受け入れるべき時が必ずある。原理を知り、終末と新しい夜明けの時代を生きている自覚をもった食口であれば、その宇宙的歴史的流れの滝の一瞬の手前に人類がいることを、背筋が寒くなる程に感じるはずだ。世界的ナイアガラの滝に対する時、私は人類歴史的巨大な滝に、人類が飛び込む前後の様子を見せられているように感じる。その時は一瞬にして訪れる。まさかこの生活基盤、社会基盤が崩れることなど誰も思いもしなかったのが、目視出来なかった崖の淵を超えると全ての足場が一瞬で消え失せてしまう。そんな恐ろしい現実を目前に控えている。
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