2011年8月28日日曜日

今日の想い 360

地震の次はハリケーンだ。東部海岸沿いをハリケーンアイリーンは北上している。ワシントンはチェサピーク湾を挟んで外海の大西洋から100マイル内陸に位置している。店や私のアパートは更に50マイル西に入っている為ダイレクトには影響はないが、それでも雨量は半端なく、朝からの雨が日を越して明日一日降り続くようだ。店もアパートも建物自体は古いので、雨が続くといつも雨漏りに悩まされる。雨漏りは天井の裏だから相当量水が溜まるまで気が付かず、漏り始めるとたらいをひっくり返したように雨水が落ちてくる。それでもランチ開けで客が引いた後だったので良かったが、下手すると客に雨水の洗礼を浴びせることになりかねなかった。今回はこの地域に強風が吹かないだけ有り難い。風が強ければ確実に停電する。一度停電すれば復旧に二日や三日はかかる。そうなると営業が出来ないこともさることながら、冷蔵庫や冷凍庫の在庫が全部駄目になってしまう。アパートのリビングも雨が漏っている。安普請で備えられたサッシの隅から、侵入した雨水が窓枠の桟を打つ。壁板の背後を伝わって滲み出た雨水がフロアーの絨毯を濡らす。絶え間ない雨漏りの音を聞き、絨毯のシミが広がっていくのを見ながら、田舎のあばら家で吹き込む雪に煩わされていた、子供の頃の当時の情景を思い出した。早めに処置すべきだという認識は一方で持ちながらも、五十を超えアメリカに住みながらもあの頃と同じように外部からの侵入物に煩わされているのが可笑しくて笑えた。どれほど人生の問題に悩もうと、どれほど内的霊的問題があろうと、日常は溢れる生活の対処事項に追われながら過ぎていく。でも生活上の些細な事柄であっても、そのひとつひとつが万物との関わりの中で万物を愛する行為でもある。子供のオムツを替えたり嫌がる子を風呂に入れていた煩わしさが恋しく思われるように、最近は生活の煩わしさが愛おしく思えてくるようになった。店でも毎日何かはある。下水やトイレが詰まることも度々だし、エアコンが効かないフライヤーのバーナーが働かない水が漏れる、、次から次へと対処すべきことが起こって終わることはない。でもそれは子供のように駄々をこねる店としての愛を求め愛の証しを求める表現だ。手を尽くした分だけ、愛した分だけ、私は愛の主管性を復帰する。

0 件のコメント: