2011年8月9日火曜日

ナイアガラの滝 (3)

カナダ側からはカナダ滝、アメリカ滝の全景を正面から見ることが出来て、ホテルやアトラクションはカナダ側に集中している。誰もが滝の全貌を目にする為に、わざわざレインボウ橋を渡ってカナダに入国する。アメリカ側から回り込むようにして川沿いの観光客の流れを南下していくと、それは次第に迫ってくる。水量の多いカナダ滝に接近すれば轟音が地響きとなって足を伝い身体を振動させ、滝の威力で巻き起こる風が飛沫を浴びせる。迫力を言うならやはりカナダ側だろう。近くで見るカナダ滝は、勢いよく雪崩落ちるその流れに引き込まれるようで、天から地へと投入し続け流し続ける、或る意味空しさにも似た感情気分に落とされ何とも言えない気持にさせられるが、少し距離を置いて見る滝は別の感情を湧きたててくれる。地上的計算を度外視した莫大な投入に次ぐ投入を継続させながらも、逆に地から天へ昇っていく次元の異なる霊的な成果をそこに見るような想いが湧き起こる。太く細く、青い筋や白い筋を描いて落ちていく流れは、青い竜や白い竜となって遡って行くようにも見える。訳のわからぬままにつぎ込み投入されるものへの虚しさから、より高い次元に昇華されるものへの期待が伺われ、地の道理から天の道理への気付きが閃き起こされ、為に生き犠牲を厭わない御父様の哲学がここにも生きているという発見がそこにある。御父様はどれだけ投入してこられただろう。御父様の路程はナイアガラの滝のごとくに投入し続けてこられた路程だ。このアメリカだけを考えても常に投入してこられた。莫大な人材と万物を投入され、御子様を失おうとも流れようとする涙も禁じてアメリカの生きる道、世界の生きる道の為にその子を想う御心情さえも投入された。ダンベリーではその御身体すら拘束させてまで投入されてこられた。批難し命を狙おうとする共産党員ですら呼び寄せられ教育され、抱きかかえられ愛されて投入された。投入しただけの外的成果を見るべきだと、私達はその観念に染まっているから成果が見届けられそうもない投入には躊躇するけれども、御父様は徹底的に愛され犠牲となられ投入されるから、如何なる地上の存在も霊界の存在も、神様までも御父様には頭を下げざるを得ない。統一教会はそのような犠牲精神に貫かれている。私達の内面を伺って、犠牲精神が流れる滝の様相となるほどに内面に見てとれるかどうかを問わなければならない。この大宇宙を創造する為に気の遠くなる年月と莫大なエネルギーを神様が投入されたように、御父様もそれ以上に投入され更に投入されようとされる。滝の淵を見ていればそこに自分が立たされているかのような錯覚を覚え、飛び込む覚悟を迫られるようで足がすくむ。その恐ろしい位置に敢えて立たれておられるのが御父様だろう。

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