2011年8月2日火曜日
今日の想い 350
人間はこの地上界という元素界、生命界、欲界、精神界など、あらゆる世界が絡み合うように存在している地上で、それらの全ての要素を、取りこんだり、放出したりして地上生を送っている。元素で出来ている自分であり、元素を取り込み排出している認識を持っているし、と同時に消化吸収しながら代謝という生命界の要素を取り込み燃焼させて活動している認識も持っている。しかしそれが心魂界や精神界の要素認識となると、とたんに意識に霧が覆っているように認識が曖昧になってくる。自分のなかに欲があることは、欲界は心魂界の低次の部分なので、他の心魂的なものよりいくらか認識しやすい。人間が自分の中に欲を覚えるとき、それは欲界から欲の要素を取り込むことで欲を覚えている。低次の霊性を備えれば、ある状況で欲の要素が体の中に流れ込む様子を見るだろう。欲望として私の中に熱いものを感じるのはその経過であり結果でもあるが、欲の要素が渦巻く世界を見るようになれば、ルーシェルの影響もありありとそこに見ることができるだろう。私の堕落性があり、それに引き込まれるように欲の要素が流れ込んでくる。人間の心魂が住む世界は欲界であったり悟性界であったり、その中で知情意という魂の活動を為してはいるけれど、み言葉を悟性という魂活動に委ねてしまって、すなわち自分の思考判断でみ言葉を推し量ろうとするならみ言葉の本質には入っていけない。神霊から届くみ言葉でありながら心魂のステージに引き下ろして料理するのは間違っている。もしあなたが霊的なことを真に理解しているなら、自分の思考がどんな霊的背後を持っているか解かっているはずだ。自分の思考だけにみ言葉の判断や御父様の判断を委ねるなら、たとえ賛同的であったとしても霊の本質に繋がることはなく、自分の思考に自分が躓く落とし穴が待ち受けている。
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2 件のコメント:
こんにちは。
とても興味深いブログなので、時々お邪魔させていただいてますが、本当に余計なお世話なもかもしれないのですが、文章に行間を持たせると、もう少し読みやすくなるのでは?とおもうのですが・・・読みたい気持ちはあるのですが、活字が連なってて、途中で疲れを感じるもので。出すぎたことを言ってすみません。これがスタイルだとおっしゃるのでしたら、聞き流してください。
御指摘の通りです。後で読み返して自分でも理解不能なところがありますが、句読点や行間、文章の長さなどに意識を向けると、途端に言葉がでなくなるので結果、こんなぶざまな状態になります。お許しください。コメントありがとうございます。
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