2011年8月8日月曜日
ナイアガラの滝 (2)
ナイアガラの滝で最もよく知られているのがMaid of the Mistだろう。遊覧船に乗り、滝の飛沫に煽られる暴風雨圏内にまで滝坪に近づき、滝を間近で見物するアトラクションだ。見物するというより台風の只中に立ち尽くすような状況に置かれて、入り口で渡された簡単なポンチョでは飛沫を防ぎきれない。それでも飛沫が優しくなる瞬間瞬間をとらえて見上げれば、轟音を立てて下り落ちるそそり立つ水の絶壁を視野一面にすることができる。この迫力ある非日常の景色と空間は、全ての見る者に自然に対する畏怖の念を一瞬であっても抱かせる。船と言う安全圏内でほんの数分のことなので、その気分に浸る程にまでは至らないまでも、目前の事柄に対して個人的欲で追いかける小さな私の魂が何とちっぽけで、安逸なままに生きようとしてもどのようにも抗えないものがあることを見せつけられる。科学万能の世の中で、人類はもはや自然に対する脅威を抱く必要が無くなったかのような日常の気分に誰もが浸っているけれど、それが幻想に過ぎないことを悟る時期に来ている。現代人に取って捨ててしまった大切な気分として、より精神性の高い存在、高次の霊的存在に対する畏敬の念を上げることができる。自然に対する畏怖の念を魂の中で成長させれば、それは高次の霊的存在への畏敬の念、更には神様へのより深くも重い畏敬の想いへと成長していく。神様がわからない、だから信じないと、実に簡単に片付けて割り切っている人が多いけれど、内面のこの精神的作業さえも疎かにして無視すれば、何千年何万年経とうとも、何度輪廻転生を繰り返そうとも、内的霊的無知と盲目、神様に対する無知と盲目は永遠に続いてしまい、そういう人間は言葉らしきものを喋る動物に留まってしまう。御父様のみ言葉を受け取りながらも、御父様を非難するに留まるのは精神的な怠惰としか言いようがない。その批判論理がどれ程稚拙なものであるか、読んでいてかわいそうになるほどだ。滝の飛沫を浴びた観光客は、帰りの船の中で頭を拭い顔を拭って後始末に余念が無いけれども、本当は自分の魂の中に拭い取らなければならないものがあることに誰も気付いていない。堕落人間の魂は、快と苦の感情に覆われてその目を塞がれている。
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