2011年8月27日土曜日
今日の想い 359
私の中には漠然としたものであってもみ言葉に照らした善悪の基準があり、その基準から外れないように意志として行動に働きかけている。私達は今まで、特に献身制度の上で原理、非原理という言い方をしてきたが、それは原理圏、非原理圏というすみ分けであり境界線を引くものであり、原理圏が善で非原理圏は悪であるという基準を備えたということだ。献身制度という隔離された状態から少しずつ境界線が取り払われ、私達は非原理圏に生きており、非原理圏の価値判断を備えており、非原理圏の社会生活に浸透している。ではそれは私が悪に染まってしまったのだという言い方をするなら、私は原理圏という無菌状態に置かれない限り悪から離れられないのであり、悪を善に変える意志を備えてはいないと言うことになる。それは自由意志を備えた自由な人間ではない。神様はアダムとエバが堕落する時でさえ自由意志に任せておられる。自由意志の前に先ず善悪の基準が先立つなら、神様は裁き第一の神様であり世界は善の牢獄としか言いようがなくなる。神様が自由意志を立てられるのであれば、私も裁きの為の善と悪のすみ分けをすべきではない。真の愛に浸透された意志を働かせて、より悪に傾いているものをより善になるように働きかけて行くことで、私の内にある善悪基準は正しく使われたと言うことができる。私自身を裁くならまだしも、周りを見て裁きのひとかけらも内なる私に見出せるなら、私の善悪の基準は真の愛に浸透されたものではなく、堕落的なものに使われ堕落的なものに留まったままだ。親が子供に対する時、子供に悪の要素があるからと言って突き放すことはない。悪の要素を取り除いて善の要素に満たされるよう働きかける衝動が親の愛だ。子供は親に取ってかわいいから愛をもって接し、隣人や社会には善悪基準で裁いて突き放すなら、私は自己中心というルーシェルから受け継いだ堕落性から抜け出すことはない。
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