2011年8月15日月曜日
霊と魂を混同している、の続き
思考における悲観や楽観、感情における安堵や苦悩、私の堕落的魂のそういった活動は既に自己中心というルーシェル本性が染みついているから、その思考や感情に委ねる以上、私はルーシェルの内的環境から抜け出すことはできない。祝福を戴いて私の中に神様の血統に繋がる魂の萌芽は見てとれるとしても、正しく畑が用意されず養分が宛がわれないなら、以前として堕落的な魂の在り様のままだ。一日の生活の中で何千何万という思いや感情が来ては去り来ては去る魂の活動は、まるで自己保身に狂った暴れ馬の如くで、私の中心的霊の現れである良心の主管下にはない。一方でうるさい魂を鎮めて良心の声を聞けるよう訓練し、その一方で良心の存在と声を際立たせる神霊の強化を図る。この瞑想や祈祷とみ言葉訓読の両立以外、堕落的な魂を超えた位置で私を導き得るものは今のところ見当たらない。比較から出発した自己の自覚が堕落の動機だったが、先ず対象に投入し対象を喜びに満たし光輝かせることで自己を自覚するという、簡潔に言えば為に生きることで私の存在を知る人間本来の霊を取り戻して、新しく入魂する作業を行っている。私の本当の喜びであるとか幸福であるとか自分を満たし得るものは、対象を経由するもの以外あり得ない。直接的短絡的に自分を満たそうとするもの全ては結局自分を不幸にし、自分を失わせるものばかりだ。私の魂の不健康さは、自己保身、自己満足、自己中心がその根底にありながら、それに蓋をしてしまって見ようとはしないことにある。悲観や楽観、安堵や苦悩、魂の表面的な活動を主管しようとするなら、蓋を取って己の正体の醜さを先ず自覚することだ。その自覚(罪意識)を踏まえて初めて、為に生きる魂の入魂に入れる。
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