2011年8月11日木曜日
ヒグラシ
蝉が鳴いている。日が傾き始めてミンミン蝉が鳴き始めた。アメリカでもミンミン蝉は鳴くけれども、日本の故郷で鳴いていたヒグラシは鳴かない。おそらくここにはいないのだろう。西日が景色を赤く変える頃に、ひと際高い音程で、大気を乾かすように鳴いていた。湿って重い私の心の中にも、ヒグラシの音が染み入って気持ちを軽やかにしてくれた。周りの林の間で相談でもしたように、ひとところが鳴き止むころになると別のところで一斉に鳴き始める。四方のいろんな角度から届く響きに身を委ねていると、もみほぐされるように心は柔らかくなっていく。柔らかくなった心の内側に更に高い響きを受け入れると、余計なものを洗い落とされるようで清々しさを覚える。降り積もる雪の中に佇むと、静寂のなかに沈むことで心を癒すけれど、ヒグラシが鳴く西日の中に佇むと、響きに洗われることで心を癒す。私を遡るいつかの遠い夏にも、このヒグラシの音を耳にしていたはずだ。どこか懐かしく郷愁を誘い、自然と涙ぐんでくるのを見れば、失ったものがこの響きで癒された過去がある。響きに誘われてさめざめと涙を流しながら、魂の深みから新たな生きる力を注がれていった記憶がある。アメリカでも旧盆を超えれば急に涼しくなる。今年の夏ももう直ぐ終わる。それを知っているのだろうかと首を傾げるほど、せわしく鳴くアメリカの蝉は無邪気だ。季節感とは無関係にただ好き勝手に鳴いているように思える。季節に対する繊細な感性を捨ててしまったアメリカの蝉のように、私は自分の周りに対しても心情に対する感性を育てることが出来ずにいる。故郷のヒグラシが一斉に鳴く、あの宗教的響きの中に身を置くことができたら、人は変わるだろうか。深々と降り積もる雪の、あの宗教的静寂の中に身を置くことができたら心を開くだろうか。重いものを抱えたままで、今年の暑い夏も過ぎようとしている。ヒグラシが鳴くのも耳にできずに、夏は去っていく。
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