2012年2月29日水曜日

真の愛のビジネス

イエス様が語られた種まきの話がある。誰もが知っている聖句だ。種がどこに蒔かれるかは確かに重要だが、それ以上にどんな種を蒔くかという方が更に重要なはずだ。マルコ伝四章の話は種を蒔くとはみ言葉を蒔くとあるから、種自体の価値は既に備わっているわけだが、ビジネスを考えた時には、どんな種を蒔くかは何処に蒔くかを問う以上に重要な事だ。種であれば何でもいいという訳にはいかない。雑草の類の種なら場所を選ばず、どこに蒔いても生えてくる。生えてはくるけれど雑草が一体どんな利益をもたらしてくれるというのだろう。雑草でも食えるから、、と言うのならビジネスを考えずに物乞いでもして一生を送ればいい。確かにこのビジネスは簡単そうだとなると、容易に売上も確保され利益もはじけると見て飛びつこうとする。雑草とは言わないまでも、生育しやすい植物というのは差ほど旨味はないものだ。そこに摂理的意味があるのならまだしも、外的な取っ付き易さだけで飛びつくのは安物買いの銭失いだ。安物買いの銭失いが今までのビジネス路程で明らかなのに、それでもまだ懲りずに反省もないまま同じ轍を踏み続ける。種は十分に選定され、選定された種を良い環境に蒔いて、そして精誠を込めて生育させる。私達には私達のビジネスがある。この世のビジネス哲学にはない真の愛が通う神様のビジネス哲学がある。為に生きるビジネス、善の授受作用としてのビジネス、善の繁殖としてのビジネス、神様が関与され絶対善霊が協助するビジネス、霊的ビジネスであり心情ビジネスとしてこの世のビジネスとは次元の異なるビジネス概念が積み上げられ、新しいビジネスの創造が為されていく。

2012年2月28日火曜日

帰る道すがら、、

デラウエアのメモリアルブリッジを超えればスウィートホームまで後半分の道のりだ。鉄骨で組まれた山のようなブリッジを登坂して頂上の辺りに来ると、ウィルミントンの町並みが眼下に広がり、さらに地平線を360度一巡して見渡せる。勿論運転していればそんな見渡せる余裕はないのだが、、。既に太陽は深く沈みはじめたが、濃い夕焼けの赤い空と黒い陸との境界線が視野の端から端まで見渡せる。大気は澄み渡り、夜景の光が星雲のように渦を巻いて広がっている。日本のようなけばけばしい電飾はないので、星屑を散らしたようなという表現がこの夜景には合っている。ハンドルを握りながらもこの光景を愛でながら、ただ愛でて終わるのではなく、地上の鏤められた宝のひとつひとつをこの手に掴む為には私はどうすべきなのだろうと考える。この手に掴んでより善の為に用いて働いてもらう為に、私は何をすべきなのだろう。会議に出るたびにいろんな意見は飛び交う。しかしどの意見もどの提案も重みがない。自分にはそう感じる。質量を感じることができず、所詮掴めない幻想を遣り取りしているだけのように思われる。会議はそれなりに熱を帯びているから、こんな冷めた私の全てをその場で曝け出すのは支障がある。だから匂わす程度になるように十分配慮して言葉を選んで口にするけれど、そのための疲労感を隠すことはできない。どうしてこうも外的表面的な事柄に限定されるのだろう。その場は兄弟だけで顔を突き合わせているのに、ビジネスという名の下にビジネスは外的表面的なことだという呪文が解けてはいない。信仰は信仰、ビジネスはビジネスという括りが水と油のように相容れないものであるなら、心と体の一体化、統一とは一体何を指して言うのだろうか。この世にはいろんなビジネスの在り方がある。そこから学ぶものも大きい。しかし学ぶ姿勢と迎合する態度を混同してしまうと、カナンの七族に同化してしまったイスラエル民族と同じだろう。私達のビジネスには真の愛で育まれ組み立てられたものがある。少なくとも御父様の息がかかったビジネスであるなら何が真の愛が関与したものであるかを把握していなければならない。それが財産であり次の世代へと相続させるものなのに、その認識すらなくて味噌も糞も一緒なら、永遠に私達の基盤は築かれないだろう。

2012年2月25日土曜日

生きた思考

思考は頭だけでなされると思っている。しかし頭で思考していると思えるその思考は、ほとんど思考の屍に過ぎない。屍に過ぎない思考を遣り取りしていれば本来の思考の力は受け取れない。生きた思考は創造する。生命を誕生させ、維持し、育むなかには生きた思考が働いている。自然や宇宙の生命力には生きた思考が働いている。芸術家は頭で考えることを辞めなければ、新しい創造は出来ない。色彩感を生きた思考の道具とし、音感を生きた思考の道具とするためには、色彩感や音感を、考える頭から切り離さなければならない。頭から離れた色彩感が道具となり、頭から離れた音感が道具となって、高次の思考を受け取り、芸術的創造がなされる。発見して発明する閃きには、頭の思考だけで生まれると思っているけれど、指が思考し目が思考し、耳が思考し鼻が思考している。正しく言えば生きた思考の道具になっている。技術大国日本は指の思考に長け、指を通して生きた思考が働いている。資産を増やすという意味で経営手腕に長けた者は、実は鼻がよく思考している。勿論、鼻が思考する為の材料はいろんな感性を通して情報として集めてこなければならないのだが、文字通りいろんな事に鼻を突っ込み、鼻が熟練を増せば、利の匂いを嗅ぎ分けてこれるようになる。堕落人間は知覚感覚を無意識的にも自己中心的にのみ使っている。知覚感覚を私という枷から自由にすると、溢れる生きた思考が内面に届く。知覚感覚がそうであるように、私が感情するのではなく、天が感情して私の感情魂が共鳴することを心情として受け取っている。私が思考するのではなく、天が思考して私の思考魂が共鳴すれば叡智として受け取ることができる。み言葉がみ言葉として、即ち天の叡智、生きた神様の思考として受け取るためには、私はどういう姿勢であるべきか。

2012年2月23日木曜日

私達の見地

世間から見れば言いようのない馬鹿の集まりだと思えるのだろう。それは別に世間の目から見なくとも、兄弟それぞれが過去を振り返って見ても、自由とは程遠く、基盤として残せたものは何もない時代を歩んできたという気分がある。そう感じるとき、今やっと目が覚めたと言えるのだろうか。それとも天を感じていた感性が塞がれて、地上的視野しか見ることができない私に墜ちてしまったと言うことなのだろうか。日本での歩みを経験した者であれば、統一教会として批判される以前に個人が責任者から批判され、責任者の批判を直接受けとめて、それに従うのが当然だった。責任者の前に自分の言葉など持つべきではなかった。当時は言われるままに任地に降ろされ、言われるままに行動して、その結果さえも批難されて、そうやって自己否定は徹底される。そこには自分の思考も無視され、押し潰されるような苦しい感情も放っておかれ、それでも逃げずに喰らい付いたけれども、あの頃の意志はどこから湧いたのだろうと不思議に思う。確かに外的に残せたものは少なくても、その当時の自分は愛おしい。悩み、苦しみ、押し潰され、地獄の底をひとり歩んでいた当時の自分が涙が出るほど愛おしい。そして同じ境遇を生きて、それぞれの地獄をひとりで歩んでいた兄弟達も愛おしい。その愛おしい想いは、自分の想いというより神様の想いとして私の中にある。自分自身に対してにしろ他の食口にしろ、愛おしい想いが溢れるとき、神様は私に訪ねて入っておられる。何の基盤も残せなかった拙い歩みであったと自分は思っても、神様は、み旨を共に歩んでくれ訳もわからずに差し出してくれた私達の当時の犠牲を、涙を流して受け取っておられる。御父様が宣言される勝利圏は、内的霊的なものであって外的地上的なものとは異なる。勝利と判断される御父様の見地と、教会は何ら基盤は築かれてはいないと外的判断に拠っている世間の見地。私達はその中間の見地に立って世間の見地を引っ張り上げる立場にある。世間は私達を仲保とし屈服しなければ引き上げられない。その点に於いて、祝福中心家庭は重要な位置に立つ。私達が差し出した内的犠牲は、一粒たりとも捨てられてはおらず、御父様が宣言される勝利圏の土台の一つに数えられている。溜息をついて、自分の見地を世間に委ねてしまうのではなく、御父様に従ってきた実績への誇りを魂全体に満たして、世間の見地を引き上げていく。

2012年2月21日火曜日

前線を護る

給与レポートの間違いはチップを含めて500ドル程度だった。向こうが要求しているように、働いた体にしてその分払ってしまえばそれで終わることかも知れない。実際フロアマネージャーも会計も、ここまで向こう側が感情を害している以上、その分払って決着をつけた方がいいと言う。そうすれば会計士との煩雑な遣り取りも、相手の責めからくる精神的な負担も無くなって解放される。精神的なものを含めた損得を考えるなら損金と十分釣り合うと思える。しかし私はこの店を任せられた者として、それは自己中心的で安易な判断であり、霊的なものを含めた店全体を考慮したとき、個の痛みは和らいでも店全体に対して痛みを与えかねないと思えた。どう行動するかを判断するとき、私はその動機が個人的なものなのか全体を思ってのことなのかが最も重要で、そこに個の思いが優先されれば天の運勢から除外されると思っている。損得の問題という表面的なこと以上に店存在の根底にある内的霊的なものを考えた時、この店が御父様の願いから出発し、それなりに成長してきた過程で注ぎ込まれたものが愛であり、愛が霊を動かし霊が店全体の実質を形作っているなら、店の責任者として霊を裏切りたくないし注ぎ込まれた愛を堕落の地に垂れ流したくはない。私の感情は嫌気がさし逃げたくて仕方がないのだが、祝福家庭としての私の中に根付く御父様の分霊は、怖気づくことなく私自身を押し出そうとする。いろんな局面で私は心と体が戦うのを見る。はっきりと言えることは戦いを経るごとに、心の声は次第に大きくなってくる。

2012年2月20日月曜日

縺れた糸

どうしてここまで縺(もつ)れるかと思うほど縺れてしまうことがある。最初は同じニックネームによる混同が原因で起こった給料レポートの記載間違いが発端だった。ちゃんと訂正したことを確認すれば良かったが、それを怠り、そのうちに忘れてしまって各従業員に年度給与集計(源泉徴収額など記載されているW-2というフォーム)を送ってしまった。毎年間違いの一つ二つは必ず起こる。記載漏れなどの報告があった場合は訂正する。別に難しいことではないし、さして大きな問題ではない。当人である元従業員は、働いてもいないのに税務署に報告された、と文句を言ってきた。訂正すれば全く問題はないのだが、本人に税務署アレルギーがあるのか虚偽報告を税務署にされたと思い込んでいる。説明すれば分かる話だと思ったが、説明すればするほど感情的になって、間違いを犯したのはそちらなのに説明される所以はないと益々制御不能になっていく。ここまで思い込みのど壷にはまった人間を今まで見たことがない。この霊的糸のもつれをどうやってほどいたものか、考えれば考えるほど私自身が縺れた糸に雁字搦めになっていくだけだ。霊的な知恵の輪でも渡されて、決められた時間内に外さなければ爆発しそうな、そんな切迫感情に押し潰されていく。こういうときは一度ひくことが大切だろう。放って置くという意味ではなく、少し距離を置いて見届ける。解決を先走るのではなく取り敢えず観察する。自分に余裕がなくなるとどうしても先走り、相手にもその良くない波動が届いて縺れた糸は更に硬く縛られてしまう。しかし余裕を与えればほぐれて糸口が顔を出す。

2012年2月19日日曜日

飛行

どんなに低空飛行であっても飛行は飛行だ。高い高度から見下ろす俯瞰的視野は開けていなくても、すれすれに飛行を続けながらも地上に属するもの、地上からの障害に対して的確な判断を下し、乗り越え、或いはすり抜けて飛行を続けていく。地上的な煩わしさから逃避しようと高度を上げていっても、神界にまで届くどころか位階の高い霊界への高みさえも届かない。それは飛行する翼の筋力が不足しているからだ。霊的筋力をつけるために地上の煩わしさがどうしても必要だ。煩わしさが霊的翼の筋力を鍛えてくれる。怖気づく自分を押し出し、ひとつの私の完成体への理想を強くイメージして失わず、堕落の実である弱い自分に対しては一歩も譲ることなく、真の父母の子である強い私にしっかりと従っていく。そうしながら霊的力を受け取っていく。霊的翼の霊的筋力を増し加えていく。誰の人生にも波がある。祝福を得て高みへと昇るときと、試練の谷間へ下っていくときがある。祝福と試練を交互に味わいながらも着実に霊的力をつけて、肉体を脱いだときには一気に高みに上昇していく。今深い谷間を飛行している自覚があるのなら、喜びの高みへと誘う上昇気流に乗れるのは間近だろう。逆に喜びの高みを享受しているならば、試練の谷間へと降りていく心構えが必要だ。自叙伝に見る御父様の人生を辿るなら、その谷間は異常に深く、地獄の底の底まで下降しておられる。肉体的にも精神的にも想像を超える試練を経験され、通過されて乗り越えられればこそ、神界に届き神様にまみえるまでも高みに上昇される。我々が統一教会で学ぶべきは、打たれて打たれて更に打たれて、それでも這い上がる打たれ強さを見につけていく。打たれ強さこそが我々が学び、我々が持っている武器だ。諦めさえしなければ天は必ず味方する。今がどんなに低空飛行であっても、それでも諦めず飛び続ければ、必ず上昇気流を捕らえることができる。

2012年2月18日土曜日

遠方より友来る。

遠方より友来る。このワシントンに奥さんの墓がある為に、遥か国境間近の地から、長時間バスに揺られて南下して来た。もうかれこれ四、五年は会っていない。どんな面持ちでやって来るか歳相応を期待したが、先回と変わった様子は特になくて迎える自分だけが歳を重ねたように思わされた。でも話を聞くとヘルニアで手術したばかりでまだ十日も経っていないと言う。二、三日前からやっとまともに歩けるようになったと言うから寒心した。もう少し落ち着いてから来てもよかったのにと思ったが、思慮するより動くほうが早いのは彼らしい。丸一日のバス移動は大変だったろう。他にも意外と見えないところで背負っているものもあるらしいが、周りを慮って顔には表さないでいる。彼が来たその日は二月半ばなのに春麗らかな日和で、天候はしっかり墓参する彼を味方した。お供えの食べ物やら奥さんの好きだったお菓子、もろもろを用意して詰め込み、お互いの近況を遣り取りしながら半時間車に揺られてワシントン郊外にあるセメタリーに向かった。入り口から管理施設の大きな建物を車で裏手にぐるっと回ると、ゴルフ場のように青々としたセメタリーが見渡す限り広がっている。小高い幾つかの丘を時速二十マイルで二つ三つ超えれば、町の喧騒が全く届かない空間に統一シンボルを表した小さな碑が立てられていて、その背後の広場に兄弟達が眠っている。彼は地面に埋め込められている相対者の碑を丁寧に拭き取って汚れを落とし、その間私は敷物を敷いてお供えを並べていった。準備が整うと彼が奥さんと対話できるように、しばらく遠のいて見守ることにした。一通り終えて呼び寄せられると、墓碑の前で、生前の彼女のこと、お互いの家族のこと、いろいろと話しながら食事した。少し風はあったが青空が広がる下での食事は、墓苑でありながらも十分ピクニック気分だ。頭の白いおじさん二人のピクニックは十分滑稽であるけれど、彼女の魂がそこにいてその情景を見ながら微笑ましいと思ったはずだ。どちらが供養されたのかと思うほどに私は安らぎを得てセメタリーを後にした。帰る道すがら、彼女の幼子のような笑顔を思い浮かべていたのはきっと彼も同じだろう。彼女はどんな時も笑顔を絶やさなかった。

2012年2月14日火曜日

塩の柱

「のがれて、自分の命を救いなさい。後ろを振り返って見てはならない。低地にはどこにも立ち止ってはならない。山に逃れなさい。そうしなければ、あなたは滅びます。」創19:17
主がみ使いを送ってソドムとゴモラの町を滅ぼされる時、アブラハムの甥ロトと彼の妻、そして彼のふたりの娘に伝えた言葉だ。ロトは娘達の婿になる者にも逃れるように伝えたが、戯れごとだと取り、その地を去ることはなかった。ロトの妻は主の言い付けを守らず、後ろを顧みたので塩の柱になってしまった。私達はD-DAYを目前にしながら、今の今ほど信仰が試されている時はないはずだ。御父様は期限の最後の最後まで望みを捨てられることはないし、期限まで願われてきた方法で救いを摂理なさるだろう。昔、霊能者のハルモニが、来るであろう天変地異の話をされた時、御父様は摂理を進めている今言うことではないと叱責されたことがあった。目前にした今でも同じ立場を取っておられるけれども、それでも話の端々に匂わせられることはあって、そうならないように今精誠を尽くすことを願われる。祝福家庭と一括りに言うけれど、皆それぞれに心霊基準の違いがあってステージはピンからキリまであるだろう。さらにそれぞれ使命が異なるので、横にならえで周りを見て安堵し、低い基準でよしとするのは間違っている。自分の使命を明確に認識し、自分の良心に鑑みて前に進んでいかなければならない。私は立ち止まってはいないだろうか。更に後ろを振り向いてはいないだろうか。一旦歩みを止めれば再度足を踏み出すのは困難が伴うし、そのうちに自堕落になっていって心霊は益々落ちていくだろう。ロトの妻が後ろを顧みて塩の柱にされてしまったように、燃えていた心霊もいつのまにか疲れて燻り、冷めて固定化していくのは、まさしく自分が塩の柱化している証拠だろう。その自覚のある内に、休めていた羽を羽ばたかせることに再度挑戦しなければ、御父様と共にヒマラヤの頂上を越えることは幻となる。

2012年2月12日日曜日

いつものカフェで

最近スターバックやカフェスタイルの店があちこちあって、みんなコーヒー一杯で好きなだけ長居し、歓談したりパソコンを叩いたり勉強したりしている。出入り自由な為に中にはホームレスのような招かれざる客もいるが、余程のことが無い限り放置され彼らの場を与えることを許している。私も二、三件事務所代わりに使ったりしているが、それぞれの店には常連と言ってもいいそんな客が一人や二人はいて、行けばいつも居座っている。今日入ったカフェもそうで、コーヒーを頼み、適当な隅の席に座ってメールを確認していると、どこからか妙な音程が聞こえてくる。見回すと入り口の直ぐ脇のテーブルに小汚い身なりの六十代男が座っていて、ウォークマンのイヤホンを耳にしている。妙な音程はその男の血色のない唇がその音源だ。耳に入る歌に合わせて歌っているつもりだろう、周りを一向に気にすることもなく、唇を震わせながら喉から絞りだすような不快な音を撒いている。雰囲気から少し気が振れているのは明らかなようで、客は勿論見て見ぬふりをしているし、マネージャーが注意する気配もない。客は時々その男に冷たい視線を浴びせながら、彼らの目には異常に映ってそういう態度を取っているが、本当のところはどちらが異常なのかはわからない。浴びせる視線に愛の衝動としての動機がないのなら、ひとつの堕落的な行為に違いないだろう。人は意識もせずに衝動的に堕落的行動を取ってしまう。自分は社会の常識や道徳規範が見えて備わっているが、あの男には見えないし備わっていないと決め付けている。だから自分の行為は正しいと思い込んでいる。しかし男にすれば社会の常識や道徳規範に縛られない自由な自分を生きていて、それを楽しんでいる。見えていて備わっていると言いながら、実はそれらに縛られている。私達はみ言葉を与えられている。しかしみ言葉を社会の常識や道徳規範に対するのと同じように扱ってはいないだろうか。み言葉がわかっていると言いながら、実はみ言葉の戒め的な面だけを捉えて縛られてはいないだろうか。ああしなければならない、こうしなければならない、ならないことだけに意識を充てて、み言葉が堕落的な枷を外して内的霊的自由を与える、み言葉の本当の力を受け取らないのなら、私がみ言葉を戴いた意味はあるのだろうか。そのカフェの客の殆どは視線を下に落として厳しい表情をしているけれど、その男は歌を口ずさみながら、無邪気に笑みを浮かべて天に視線を向けている。

2012年2月9日木曜日

私の立場

判断は頭でするものだと現代人は思っている。頭で考え、頭で判断すると、、。思考、感情、意志は魂の活動であるのに、魂自体が堕落的なのに魂の活動は正しいと思っている。自分の思考も判断も正しくなされているという前提ありきで、み言葉もその前提あってのみ言葉、信仰もその前提あっての信仰になってしまっている。しかし本当は逆で、私の思考判断はみ言葉が前提とならない限り、私を変えるみ言葉としての本質を受け取ることにはならない。遺憾にも袂を分けてしまっている兄弟はしきりに我々に訴える。良心の声に聞き従っているのか、見るべき事に目を塞ぎ聞くべき事に耳を塞いだままでいいのかと、、。お頭の弱い私でもそれなりに思考でき判断できる。しかしその思考と判断に委ねるべき領域があることもそれなりに心得ている。そして今問題とされていることは、その領域を超えてしまっている。私はこう思うだとか、こう判断するとかの自分に委ねられる範疇にはない。良心の声を聞けと言うけれども、私は彼が言うところの良心が良心だとは思っていない。普通の人間は良心が心の中で際立っていないので、相応の深みに落ちるまで罪を犯さないと、苦しいほどの良心の痛みを覚えるまでに至らない。共産主義者が自分こそが正しいと、社会に対する義憤に誇りさえも覚えて活動してきた彼らが、良心の痛みを味わっていたかと言うとそれはないだろう。彼らも今袂を分かっている兄弟達と全く同じで、頭で考え頭の判断に委ねただけのことだ。良心の声に従っている自覚もないし、勿論、悪魔の声に従っている自覚も無い。しかし結果として神が取るかサタンが取るかは、自分の判断を超えたところで決められる。それは歴史が証明しているように明白なことだ。信仰に入る入り口では私が正しいと判断したから扉を開けたのかも知れないが、本質的には私が判断して信仰するのでもないし、私が判断して従うわけでもない。御父様とみ言葉に判断を委ねて信仰を立て従って行く。そうでなければ御父様がわざわざ絶対信仰、絶対服従と言われる意味はない。判断するとは即ち善悪を知ると言うことだが、人間は思考が判断を決める場合もあり、感情が判断を決める場合もある。そして私達が本然の人間の魂の在り様として目指しているのは、み言葉が判断を決めるのであり、心情が判断を決める。だから正しいと自覚して今の立場を取っているわけではなく、み言葉と神様の心情に委ねようと努力しているだけのことだ。将来的にもし御父様が異なる判断をされるなら、絶対信仰をもって従うのみだ。それを主体性のない言われるがままの人間だと愚弄されても、そんな言葉でうろたえるほど信仰は弱くない。

2012年2月7日火曜日

今日の想い 384

ラスベガスの地を再び踏まれて、天和宮からの映像が届いた。あれほど笑っておられる御母様の御姿は始めて目にした。それまでの経緯が見えないので、どういう状況なのかは良くわからないが、笑い転げるという表現は失礼だとしても、そう言っておかしくない笑われ方だった。本当にお腹から笑われたのだろうかと、ひねくれている私などは訝るけれども、私の詮索をよそに是非そうあって欲しい。私が想像すらできない深刻な御自身のお立場で、やもすれば御父様をはじめ周囲に影響を及ぼしかねないと、その御心配をされての上でのように思えて、その様子を画面に見ながら私は逆に心が痛んだ。昨年天和宮の訓読会で、集まった兄弟達は吹き飛ぶほどの大目玉を戴いたけれども、御父様に対しては勿論申し訳ない思いはあるけれど、でもそれにも増して疲れておられる御母様を前にして心苦しくて仕方が無かった。しばらく前のワシントンで見る御母様はいつも笑っておられて、そのときの印象が私の脳裏からは離れない。御父様の様子や御機嫌はその都度異なるけれども、御母様は微笑んでおられた。私の不手際で冷たい御父様に接しなければならない状況でも、微笑まれる御母様が隣におられて救われた。厳しい冬に縮こまりながらも春の息吹を感じるときのように、絶望的なほどの感情に襲われながらもヒョイと飴玉でも差し出されるように、御母様の存在には赦しがあり慰労がある。或る昼食の場で、御父様はやはり厳しい表情で責任者の報告を受けておられた。勧められるままに妻と御挨拶に進み出て啓拝を供えながら、その時の妻を一瞥された御母様を覚えている。緊張感のあるその場でありながら、一瞬目を見開いて口元を緩め、笑みを含んだ驚きの表情を表された。その時の妻は、前回サモニムから戴いた御母様の水玉のスカートを穿いていた。

2012年2月6日月曜日

祈祷について

全体祈祷で皆が声を張り上げて祈る状況は、アメリカではあまり見かけることはない。日本で復帰され日本で統一信仰のいろはを学んだが、この全体祈祷の雰囲気にはなかなか入り込めなかった。皆が声を張り上げながらお祈りすると、全体の祈り声が合わさって渦を巻いて構内室内をうねり、ウォンウォン響いて腹の底まで揺さぶった。圧されて負けまいと集中し直し声を大きくして挑むのだけれど、さして祈る内容があるでもなく、周囲ほどに感情が高められるでもなく、無闇に口に出しても言葉は空しくかき消されて、結局押し黙ったまま殆どの時間を過し祈祷を終えるという感じだった。こんな状態でお祈りして神様は聞く耳を持たれるのだろうかと、随分次元の低い疑問が頭の中で回っていた。神様の存在を認識し、神様との関係を正し、神様との距離を縮める為に祈りは大切だ。しかし祈りの言葉を頭を巡らして引き出したり、私の感情が付いて行かない、要するにわかっていない摂理に対しながらも恰も切実な願いであるかのように演じたり、そういった作為的なものは祈りではない。祈りは神様を対面につかまえて、私の内面から出た言葉を繋いでこそ祈りとなる。公的祈祷は別として、個人的祈りは対話の主体である神様を捕らえない限り、兎に角言葉を口にしようと思って無闇に焦らないほうがいいだろう。作為的祈りが習慣化すると、信仰はどんどん形式的なものに固まってくる。いつのまにか神様抜きの独善的信仰観が備わり、歩んでも神様との出会いはなく、そしてそれが当たり前になってしまう。み旨を歩む外的な忙しさに翻弄されてきた食口は、結果として内的なものが疎かになってしまっている場合が多い。だから今の主体的信仰が要求されながらも(宗族メシヤ、氏族復帰は主体性がないと為せない)、何をやったらいいのかを教えられるまで待ち続ける受身信仰から脱却できないでいる。真の御父母様という言葉も、形式的祈り、形式的意味で使い続けてきたから、言葉のもつ意味のままには受け取ってはいない。別の言い方をすれば、真の御父母様と口にするとき新鮮さを欠いている。ひとつ私が提案したいことは、お祈りでも今まで通り、前置詞や接続詞のように口を開ければ天の御父様とついて出てきた言葉に、敢えて、私の、とか、何々家庭の、とか入れてみるとそれだけで距離は縮まってくる。また公には言えないけれども、生活の中で呼びかけるには天の父ちゃんでも天の親父でも形式的な呼び方よりは感情移入されて神様も相対基準が合わせ易いのではないだろうか。私の神様を捕らえ、私の御父母様を捕らえない限り、私の中に霊的柱は立たない。霊的柱が立たなければ私が主体になれず、霊界から協助しようにも協助する主体が見えないで先祖達は彷徨っている。

2012年2月4日土曜日

今日の想い 383

妻が移植手術を受けてから、既に六年目に入ろうとしている。何度も何度も身体の不調を訴えながら、何度も何度も遠方にある病院を往復しながら、何だかんだ言いながらも六年目を迎える。健常者の血液数値には程遠くても、それでも低い基準だけれども何とか安定している。数年を経て、私自身が当時の心の混乱ぶりを忘れかけているように、最近の子供の態度や言葉からも、当時彼らが味わった切実な思いを忘れかけているのがわかる。あの時、六時間にわたる移植手術を終えて、集中治療室で疲労と痛みに喘いている母の為に、子供ふたりを連れて広いメディカルセンターの中を拠点を決めて順番にお祈りして回った。決して信仰が魂に根ざしていた訳ではない彼らが素直に父の指示に従ったのは、彼らなりに切実なものがあったからだ。あの時のことを思い出して、忘れることなく心に深く留めておいて欲しい。おそらく初めて味わった、子が親を想う気持ちの切実さを、これからも持ち続けて欲しい。彼らに実感として刻みつけた、痛みさえも伴うあの心の体験こそ、直接に彼らに問いかけ働きかけた神様との貴重な出会いの記念すべき瞬間だからだ。そして生きることの深くも重い意味を、魂の中で尋ね続けて欲しい。その土台でこそ、祝福子女として神様の血統圏で生を受けた本当の意味も見出せるだろうし、感謝の感情も実感できるようになるはずだ。死を遠ざけることなく、常に死を傍に置いて生きる。実際自分と自分の周囲も常に死に向かっている訳だし、誰でも確実にその時を迎える。生があって死が認識されるように、死を踏まえてこそ生は生として活きる。死を迎える時に心置きなく旅立てるように、そして送る者は心置きなく送れるように、その準備は生を受けたときから始まっている。今は、死という言葉に含まれる暗くて否定的で堕落的なものから、昇華を踏まえて聖和へと、祝福的言葉が与えられている。

2012年2月3日金曜日

小宇宙

人は生まれながらにして小宇宙を抱えている。身体のことを言うなら、血流が五臓六腑という惑星を駆け巡る小宇宙だ。小宇宙の生命を維持しながら、その目的が何かと言うと、より広範囲な宇宙、いや、より次元の高い宇宙と言った方がいいのかも知れないが、小宇宙は家庭宇宙を標榜し、家庭宇宙は宗族宇宙を標榜し、国家宇宙、世界宇宙、、とより次元の高い広範囲な宇宙を標榜している。人という小宇宙が目を持ち、耳を持ち、四肢を持っているのは、家庭という宇宙を創造する為であり、さらに宗族宇宙、国家宇宙、世界宇宙を創造する為に備えられている。目はひとつの家庭観を標榜する為に個人的目から家庭的目に変わり、さらに宗族的目、国家的目、、という風に次元を上げていく。家庭観が備われば感覚器官は家庭の感覚器官となるはずだ。御父様が語られる私達が歩まなければならない横的八段階の路程は、私という小宇宙から出発した、より広範囲な宇宙を標榜していく路程に違いない。神様がアダムとエバから始まって天宙の主管主であるように、私達が神様の息子娘であるなら神様に似て、私個人の主管から始まって天宙の主管主にまで上り詰めることを標榜するはずだ。御父母様が神様の位置に上り詰められたように、御父母様が開拓された路程を私達全てが願って上り詰めて行くはずだ。しかしながら一方で御父様の願いそのままに、何処までも付いて行きたいと思いながら、その一方で蕩減して清算されないものをも私は抱えていて、家庭段階に留まろうとし、さらには個人まで落ち込もうとさえしている。私の中に流れていた堕落の血統の血の主人が、言葉なき言葉で私をその地に縛り付けようとする。この堕落の因縁の鎖を断ち切って、本郷の地に向かう私を全面に立てて進まなければ、私個人としての小宇宙的存在すら危ぶまれるだろう。私は家庭の為に、家庭は氏族の為に、氏族は国家の為、国家は世界の為、世界は天宙の為、天宙は神様の為、そして神様は私の為に。私という小宇宙の存在基盤を与え保護するのは、私自身ではなく神様だということ。家庭宇宙から宗族宇宙、さらには国家宇宙へ向かう宗族観、国家観が多くの祝福家庭に未だ備わっていない。御父様に取ってそれがどれほどもどかしいことか。本郷の地創建への熱情が私達の中に燃え上がらなければ、御父様は安心して旅立つことはできないだろう。

愛と執着

相手の為に生きる愛とは、与えて、与えて、さらに与えて、そうして与えたことを忘れて、さらに与え続ける愛。私の中から与えれば、私の中に隙間が生じる。そしてその隙間は、しばらく傷が痛み続けるように埋められることはない。そう人は信じている。私が、私の中の自分自身だとして失いたくないものを与えられないように、誰も私に犠牲を強いてまで与えようとする人はいないと信じている。だから当たり障りの無い部分はいい人面して与えても、本当の意味で為に生きようとは思っていない。その人にとって為に生きる愛は存在しない。犠牲を払って私の中に大きな隙間を生じさせたいとは思わないからだ。人は自分の中に隙間が生じ、ぽっかりと大きな穴が開くことを恐れている。愛する人ができたとき、相手に対する私の愛は本物だと誰もが思っている。そこに自分本位の偽りの愛はないと信じている。愛する人は私の中に存在している。私の中に存在して抱え込んでいる。だから私の中にいる愛する人を失いたくは無い。富は私の中に存在していて、私の中にある富を失いたく無いように。地位も名誉も全ての社会的財産も、私の中に存在していて私を満たしている。だから私の中にあるそれらを失いたくは無いように。失うまいとして抱えた力を強くすれば強くするほど、執着すれば執着するほど、抱えたものは固体化していく。固体化すれば脆くなる。そしていとも簡単に砕けてしまう。抱えた執着の腕をほどいたらいい。ほどいて固体化していた縛りを外し、流れ出すままにすればいい。そうしてできれば敢えて流して差し出せばいい。執着すれば私を生かす主体の存在も執着して、私に流れてくるものは少なくなるだろう。流しだせば私を生かす主体の存在も、抱えた腕をほどいて、私に有り余るほど流して下さるだろう。私は主体の存在に生かされている対象の存在だということを先ず悟ることだ。神様がどんな小さな隙間でもはいっていかれ、全てに浸透されて偏在されるように、魂は本来みずみずしくて、流れ出すほど柔らかいものだ。固体化していた魂が液体化し、さらに液体様相になった魂のある部分が気化していくと、広い世界を包み地球を越えて天宙をも包み込んでいく。それは地球をポケットに入れて歩いているような感覚だろう。入ったものは出て行くように、誰にでも、否応なしに愛する人を失うときが来る。必ず来る。その時は私が去らなければならないのかも知れないし、愛する人が去らなければならないのかも知れない。魂が私の執着のために固体化していると、その試練は自分には耐えられないだろう。愛と執着の違いがわからず、送ることも愛することだという学びをしていないからだ。愛が執着ではなく本当の愛だと言えるためには、送ることも愛だと知って、正しく送りだす必要がある。そのときに、悲しいけれども喜ばしいと言える私になることだ。

2012年2月2日木曜日

家庭系

今、一体どこを歩いているのだろう。先頭の御父様を見失わないように、列の最後尾あたりを辛うじて付いて歩いているようだけれど、周りの景色も良く見えないし、ましてや先頭の御父様の視線の先に見ておられる景色が見えるはずも無い。全てをわかっているようで、実際のところ何一つわかってはいない。霊的な目が少しは開いて来たのかとも思ったが、2012年に入ってまたもやトンネルの中に入ってしまったようだ。何かわからない重いものを抱えて足踏みしているようで、一向に前に進んでいる気配が感じられない。今の世で占星術と言えば個人的運勢を占うに留まっているけれど、昔は星の動きが自然のみならず地上の全ての動向と完全にリンクしていた。信じるとか信じないとかと言った類のものではなくて、地上の動向は星の動きを地上に映し出した結果だった。心の表れが表情や行動に出るように、星の動きが地上に現れていた。それは人間が現代のような自我意識を持たず集団的意識であり、自分の魂は私の中にあるのではなく星の動きに魂があり、自分はその分枝でしかなかった。今の私達は自我意識を明瞭に備えて、その上で御父様を戴いて中心となし、統一的な魂を標榜している。統一的な魂に私自身を委ねるなら、私は明らかにその身体であり、御父様が主管し動かされる星々のひとつだ。恒星を中心として惑星が周り、太陽系のようにひとつの星体系をつくるように、それぞれの家庭は、大宇宙の中心である御父様と真の家庭に繋がるひとつの家庭系だ。たとえこのトンネルの期間を通過しているとしても、私と私の家庭は確実に御父様の再創造に組み込まれている。その確信はどんなことがあっても揺らすべきではないだろう。

2012年2月1日水曜日

今日の想い 382

店があるショッピングセンターにもスポーツクラブが入っている。朝五時の訓読を終えて店に行くとクラブの前の駐車場はほぼ満杯だ。出勤前の一汗をかくためだろう、大きなボストンバッグを肩にかけた男女が、そこだけが異常に明るい店内にどんどん吸い込まれていく。エクササイズに筋トレ。一頃は予想だにしなかったが健康志向に今では誰もがしっかり投資して我が身のケアに余念が無い。本音はシェイプアップなのだろうけれども嗜好品を辞められない状態に比べれば汗を流す方が遥かにいい。以前は丈よりは幅の広がりがある人が目立っていて、少々自分の腹が出ていても気にもしなかったが、最近は引き締まった体型の人が多くて彼らの視線が気になる。中には異常なほど筋肉を盛っている人も見かけるけれど、彼らのそう言った志向はひとつのナルシストの表れなのだろうか。それとも筋肉武装する必要性が認識されるからだろうか。体に筋肉を盛るのもいいけれども私が本当に力をつけなければいけないのは内的な筋力だろうと思う。強い韓国という話をされたけれども、どんなに外的な面で武装したとしても、それを支える内的な強さが無かったら戦えないだろう。日本も事ある毎に第九条問題が話題に上るけれども、精神の柱を失った日本がいくら憲法を変え国防に力を入れたとしても、国を護る気概もなくて形だけ整えても意味がない。そのように、どんなに信仰的取り決めを守ったところで、私の中にみ言葉による柱が立たなければ意味が無い。このみ言葉が私の内面を構築し、内的霊的筋力をもたらす為には、もっと訓読すべきなのだろう。何度も何度も訓読すべきなのだろう。瞑想もし、祈りもしながら更に訓読すべきなのだろう。寒々とした冬の間に、花開く生命が地平の下の見えないところで、その準備に余念がないように、勝利の相続を受けて花咲かせる私になる為に、訓読によるみ言葉の素地がしっかり準備されなければならない。向こうが筋肉オタクなら、私はみ言葉オタクになってやる。