2012年11月30日金曜日

今日の想い 497

歳を取れば時が短くなっていくものだが、特にここ数年の流れの速さは異常なほどだ。季節季節の趣きを味わう余裕もないうちに次の季節を迎えてしまう。感謝祭をこえてクリスマス、そして新年を迎えるこの季節は、家族と会食したり実家に帰っている懐かしい友達に会ったり、勿論クリスマスに向けてのギフトを準備するのもこの時期だけれども、いつもはそういったホリデーシーズン特有の雰囲気に包まれて過ごす。しかしここ数年、特に今年のホリデーシーズンはそんな空気も流れていないし、そんな気分にも浸れない。おそらくそれは私が歳を重ねたせいではなくて、時の流れが加速し続けていることによると思える。私達は基元節の意味はよくわかっていないにしても、基元節を迎えることを知っているし、摂理的な認識の観点から季節の趣きを味わうような状態にはないことはわかっている。み言葉を知らない人々は基元節それさえも知らないが、しかし時の流れの速さだけは感じ取っていてそれに抗うことはできず、生きるために懸命に流れが要求するものに応えようとしている。人々の意識の水面下で、人類全体の潜在的意識の大きな流れは既にこのD-DAYに合わせられていて、人々は無意識にもその準備をさせられている。いろいろな認識の表れのひとつは、2012年12月22日、マヤ暦の終結だが、御父様は以前人々の間に広がりを見せたその事に触れておられて、「わかることはわかっているようだね。」と話されたことがある。基元節を知っていれば自分の基元節への準備が為されるのではなく、基元節を迎える最終的な準備を備えた者は、基元節を知らない何処かの何かの群れであるかも知れない。神様は神秘的に働かれると話された子女様がおられるが、この言葉に関してはその通りだ。祝福を受けており、摂理に奔走してきたのであり、基元節を知っており、再祝福を戴いて天国の末席に加えて戴けると思っているけれども、それが自分の思い込みによるものかも知れないし何の保証にもならない。自分が思っている基元節ではないかも知れないし、天国は自分が期待している天国ではないかも知れない。そんな意表を突かれたとしても、そこで頑なになって塩の柱になるのではなく、何を言われたとしても何が起こるとしても、受け入れられる内的な柔軟さを備える必要があるだろう。その為にはどうしたらいいのかを問わなければならない。御父様が聖和されて、追い腹を切る食口のひとりふたりはいるだろうと思われたが、そんな話は聞かない。しかし行動は取らないにしても、それ位の一片丹心を持って、基元節への条件と心構えを準備する私になるべきだ。

2012年11月29日木曜日

心の枷

心は自由な存在であるべきだけれども、そして私の心は自由だと思っているけれども、地上的な枷に嵌められて本来的な自由を拘束されているのが現状だ。それは心の願うままに体が動かない、体には別の法則を宛がう肉心が存在していてその言いなりになっている、という認識に至るほど、肉心と本心の違いを捉えていればわかることだが、地上での倫理的道徳的な枷さえも心の自由を拘束してしまう。この倫理的道徳的に宛がわれた社会通念を御父様が指摘される良心だと信じている者達がいるけれども、そういった立場を固守する者が反教会の立場を取るようになる。だからと言って倫理道徳を無視しろというものではないことは、はっきりさせておきたい。今の社会通念は性悪説、つまり人間は元来自分中心に存在する生き物だという立場であり、集団生活を余儀なくされる人生であれば仕方なく必要条件的に出てきたのが倫理道徳と捉えるべきだ。結果的に良心的な部分も表れているが基本枷に嵌める為のものだと言える。結果的に良心的であればそれでいいだろうと思うかも知れないが、良心的なものは飽くまで良心的、外面(そとづら)であって、必ず内面が暴露されて良心的なものは破壊する。心やさしい日本人だと思っているけれども、集団の流れが変わってくるとそれに合わせる為に途端に手の平を返したように冷たくなる。それは倫理道徳が神様に対する信仰に根ざしておらず必要条件的なものだからだ。私達は良心的な行動が必要性にかられて出てくるのか、それとも内なる衝動から出てくるのかを、自分をよく観察しながらよくよく認識するべきだ。私が良心という言葉を持ち出すなら、御父様を慕い侍る想いが強くあって、それに突き動かされる衝動を伴う熱いものがなければ良心とはいえない。御父様が語られたように狂うほどに慕い侍ることだ。狂気の最高の在り様は恋だとソクラテスの弟子、プラトンが言っているように、恋した者の衝動を私の御父様への想いの中に見る。それが一片丹心だろう。御父様を只の一人の人間と見る者は、それこそが周りが見えない心の枷だと言うが、御父様に帰依する者はそれこそが堕落世界の枷のない永遠、不変、唯一、絶対の自由圏だと言う。叡智に恋するのがフィロ(恋する)ソフィア(叡智)、哲学であって、熱狂的に叡智に関わることで新しく受け取るものがある。そのように御父様を熱狂的に慕い侍ることで堕落圏を越えて入る心情世界、次元世界がある。

2012年11月27日火曜日

今日の想い 496

以前、関西の長寿番組、探偵ナイトスクープに、四葉のクローバーの場所を言い当てるという女の子の話が出ていた。公園の草地に佇んでいたかと思うと走り始めて、呼び寄せられるようにその場所に行き、しゃがんで腕を伸ばし四葉を手にする。本人の説明は教えてくれる声が聞こえると言うものだった。その場所場所に番号でも示されているように次々と走り寄っては四葉を手にしていた。純真な子供ならではのエピソードで、私はその純真さをいつまで持ち続けることができるのだろうと思いながら見ていた。人間が生まれて間もない幼少期には罪は表れて来ない。しかし人間の成長過程のある時点で内包していた罪が表に現れ認められるようになってくる。人に依ってまちまちだが、大体が思春期の頃、大人の体となり人間の中に別の知恵が働き始める頃だ。エバがルーシェルに、取って食べると神のように知恵がつき目が開けるのですかと聞いているので、ルーシェルがエバにそう言って誘惑したということだ。確かに思春期の頃、別の知恵が働き始めて狡猾さが認められるようになる。思春期というエデンの園で感覚界に目覚めて周囲に開けてきて、見たい聞きたい触れたい自分のものにしたいという欲望が一気に芽を吹き出す。それは感覚的なものへの堕落的接触だ。それは堕落人間だから自動的にそういった在り様にならざるを得ない。そこから堕落的なものを除去しようとするなら、先ず感覚そのものを否定する必要がある。感覚の背後に潜在的意志(意識)があり、その潜在的意志の背後に霊的無知がある。大まかに言えばそうだが、仏教では人間の12の因縁を釈迦の悟りとして詳しく表している。順番をいうと、無知、形成、意識、人格、感官、接触、感受、渇望、官能、受胎、誕生、老死、となる。最初の六つの過程が霊的堕落であり最後の六つの過程が肉的堕落の過程だ。肉的堕落はイメージしやすいが、霊的堕落は霊的感性が無いか或いはお粗末な我々現代人には把握が難しい。堕落論は正しくも無知な私達は霊的な概念がわからない為、どうしても地上的に捉えてしまう。地上的に捉えた理解でどうも堕落論は矛盾すると思ったとしても、矛盾するのではなく霊的に理解していないと捉えるのが正しい。ルーシェルの誘惑という無知因縁からルーシェルとの交わりである接触因縁まで即座に起こったように思われるけれど、霊的堕落には戒めの否定から始まってルーシェル的色合いの形成力を持ち、それが意識を起こさせ、霊の人格となり、霊的感性を育て、接触を味わう段階を経ている。ルーシェルはエバを決定的霊的堕落に持って行くために段階毎に経過を指導していった。御父様は霊的に無知な現代人でも堕落の意味を理解できるように堕落論として表されたけれども、その本質や深みを探求する意志なくしては、堕落論の骨格の骨格を知っただけで、その肉付けや動きまでもわかるほど罪の根である堕落を見通すことはできない。純真な幼子に堕落以前の様子を垣間見ることはできるが、ルーシェルが誘惑し始める更に以前の、神から戒めを受ける以前の人間の状態は見ることができない。基元節に於ける再祝福は、堕落以前の立場ではなく、神様から戒めを受ける以前の立場で祝福を受ける。その意味を理解して受ける兄弟達がどれだけいるだろうか。

2012年11月25日日曜日

今日の想い 495

田舎の親は年老いた今でも、寺の行事やら掃除やら世話役で忙しい。過疎で殆どの住人は町に移住していて、寺の住職ですら状況は同じで、行事がある毎に町から足を運ぶだけでその寺に住んでいるわけではないらしい。残った年寄り達が寺を護っているということだ。うちの方一帯は浄土真宗だが、殆どがそうであるように、この教えにこそ真理があるという思い入れがあって寺を護っている訳ではなくて、時を経て重ねてきた文化であり慣習であり伝統として行動している。その行動様式に自分を供えながら、宛がえることで魂にある不安や恐れへの対処としている。祖父が亡くなった時に私は名古屋にいて、葬儀に間に合うように田舎に帰ってきて、葬儀の前だったか後だったか、数少ない親戚のうちの大伯父と叔母が一晩家に泊っていった。私を含めた兄弟三人とその二人が六畳半の部屋に枕を並べて休んだ。大伯父は兼業僧侶で、叔母は休むために横になりながら大伯父に尋ねていた。死んだら本当にあの世があり極楽浄土に行けるのだろうか。特に力を入れて改まった様子で尋ねたわけでもないので、大伯父は説法を始めたわけではないが、昔からそうだったように鼻を鳴らしながら応えた。この目で見た訳でもないので何とも言えないが、浄土に行けると信じること以外何ができる訳でもないと、、。仏の教えはそれが真理であると証明され納得させて信仰するものではなくて、煩悩を患い、不安や恐れを抱く魂を、先ず教えを受け入れることで癒そうとするものだ。仏教の本質がこうだということではなく、私の田舎の人達にとってはそうだ。その在り様を否定して真理の権威を持ち出すことに何の意味があるだろう。我々が信仰と捉えるものと異なる慣習化した信仰にも、それなりの仰ぎ見るものがある。それを敬うことをせずに入っていこうとしても無理があるだろう。私達が伝道とイメージするものがあって、頑なにそれをして復帰することに躍起になっても、それでみ言葉が入り、御父様を受け入れ、祝福に繋がるかどうかを真剣に考えてみるべきだ。ならば私が先ず対象者の人々の基準に合わせ、同じ在り様となり、彼らなりの祝福への扉を開いてあげることも選択のひとつだろう。私は知の扉を開いて御父様に繋がったけれども、情の扉を開いてあげて繋がる道もあるはずだ。

2012年11月24日土曜日

今日の想い 494

人間は心と体の関係性で存在しているように、天宙は霊界と地上界の関係性で存在している。また人間は凹凸で受精し女性の胎で宿すように、神様も凹凸で神様の精子を受精し、天宙の胎である地球で宿される。本来地球という胎は天国人を繁殖すべきでありながら、サタンに横取りされて神様の精子のない無性卵状態で胎に宿し、地獄人を繁殖している。全ての霊人達は霊界にいるけれども、既存の霊界の中に天国があるのではなく、よって霊人達は開放されてそのまま天国に移り住むのではなく、新たに生まれ変わらなければ新しい霊界である天上天国には入れない。新たに生まれ変わる為には胎の中に入らないと生まれ変われない。要するに霊人達は地上再臨して再臨復活しなければ天上天国への移籍はできない。霊人にとって地上再臨は天国の門へ向かう参道コースが開かれたと言うことができる。基元節で神様の結婚式が行われる。それはαでありωの神様の結婚式であるので、究極の最小単位が結婚することであり全ての存在を含む天宙が結婚することでもある。今の人間は神様を擬人化することでしかイメージできないので、神様の結婚も人間同士の結婚イメージでしか認識できないけれども、事実は私達がイメージする結婚からは想像もできない天宙の一大事件であり、それによって何が変わり何が起こるのかに至っては想像を働かす余地もない。言い方はおかしいけれども神様ですら推量できない期待圏に突入していくのであり、私達は再祝福を戴いてその期待圏にただただ振り払われずにしがみ付いていくのみだ。御父様がD-DAY、戦闘開始日と言われた基元節の意味合いが地上にとっては一番、的を得ているといえるだろう。地球という胎が破壊されることはないが神様の精子を戴いて受胎すればどうなるかは、女性の妊娠状態の体の変化に通じるものがあるだろう。絶対性という言葉、神様の結婚という言葉、神様の精子という言葉等々、これらの講論にはない言葉、ましてや地上的概念を構築できないこれらの言葉を、私達はどう捉えて行くべきなのか。それは神霊によらなければないないだろうし、神霊を受け取り理解した者が愛の権威をもって期待圏を切り開いていく。

2012年11月23日金曜日

感謝する私から愛する私へ

私はどれほど多くの贈り物を戴いて生きていることだろう。この生命それ自体が贈り物だ。それは長いとか短いとかで価値が計られるものでもなく、嬉しいか悲しいかで計られるものでもなく、たとえ痛み苦しみの連続であったとしても、それでも戴いた生命はそれ自体が計り知れない贈り物だ。さも当然のように何の感情もなく生きているけれども、数々の贈り物への感謝の想いのないまま生きるのは生きているとは言えない。何ひとつとして犠牲を払われずに届く贈り物はないし、私と共にある全ては犠牲に貫かれ、私に起こる全ての出来事は愛のひとつの形として、愛のひとつの現実として私と共にある。そこへの感謝の想いを私の中に見い出し、そして抱えてこそ、私は死亡圏を超えて生きていると言える。その感謝の想いは、死亡圏で喜ばしいことが起こることへの感謝とは感謝の次元が異なっている。死亡圏の感謝は苦しいこと悲しいことへ向けられることはないが、御父様に戴いた真の生命圏の感謝はこの世的苦痛も悲哀もその感謝で昇華できる。苦労すれば優しくなれるとか、将来的糧になるとかと言った回りくどいものではなく、犠牲的在り様それ自体を感謝する感情として私の中で燃えている。百篇犠牲となって死んだとしてもそれでも返せない恩を受けていると言うのは、ものの譬えではなくその通りであって、だからどんな立場であれ境遇であれ、感謝の想いに溢れて歩んで当然の私だ。私が感謝の実体でないなら、謙虚の実体でもない。私が神霊に通じる霊的存在、精神存在となるためには、感謝の実体、謙虚の実体であることが基本にある。イエス様は人類の為に犠牲となられて、それを恨みとせず御意のままにという感謝を抱いた。イエス様が立てた感謝の基準をもって、人類は同じ感謝の基準まで引き上げられる。御父様も人類と神様の為に犠牲になられて、それを恨みとせず過ぎてみれば全て愛であったとされ、愛の勝利を抱かれた。御父様が勝利された愛の基準、真の愛の基準をもって、人類は同じ愛の基準まで引き上げられる。人生それ自体の避けられない艱難辛苦を甘受し感謝する私はイエス様の犠牲の勝利によるものであり、み旨の為に敢えて艱難辛苦を引き受けて立ち向かう、為に生きる私は御父様の真の愛の勝利によるものだ。

2012年11月20日火曜日

今日の思い 493

雪が降ると、点在する家屋は白く冷たい覆いをかけられて縮こまり、人気のない田舎は眠ったように動きを止める。田舎に雪が降っているのをブログの更新で知って、家に電話をかけてみようと思った。受話器を取って番号を押し、向こうが取り上げるまでの呼び出している間がいつも落ち着かない。何かあったら直ぐにも電話を入れるよう伝えてあるが、その電話がかかってきたとして一体どう対処したらいいのだろう。そんな思いがいつも頭によぎる。向こうが受話器を取り、母の声に変わってやっと息をつく。たどたどしいやり取りが続いて、誰かが聞けばこれが本当に親子の会話なのかと訝るほど乾いて機械的だ。感情は込めずに確認事項だけをひとつひとつ並べていく。別に電話口だけでなく顔を合わせて話すときもこんな感じだ。もし特別な事態になったとしてもおそらく変わらないだろう。逆に、嬉しくて仕方なければ冷たさを装い、悲しくて仕方なければ笑顔さえ浮かべるはずだ。ドラマに見るような愛情の表現は私にとっては相当気恥ずかしいものだ。そんな母が唯一涙を見せたのが、私が献身する前日、下宿に父と来たときだった。その時の母の涙は痛みとなって今でも胸に残り、霊界に行っても決して癒えることはないと思う。もうすぐ母も80になる。春に帰った時には前よりも縮んで背は更に低くなっていた。まだ言葉に力がある時は、電話するたびにいつ帰るかとしきりに聞いていたが、最近はこちらが尋ねることに頷くだけで終わる。年を取ると地上の現実よりあの世に意識が移っていくらしい。視線は地上を離れ、あの世の便りに聞き耳を立てる。周りに人がいない環境であればその傾向は一層強くなる。野も山もすっぽり雪で覆われれば、地に着いていた意識が浮いて、見えない向こう側を垣間見たりする。孤独の恐ろしさが感情にひたひたと寄せて来る。若い者であってもそうなのに、いつお迎えが来るかもわからない年寄りは尚更だろう。原理を講義して理解できるとはとても思えないが、心魂は確実に救いを求めているのであって、そこに手が届き気付かせることができれば、閉ざされていた心の門が開いてみ言葉を受け入れるはずだ。長い間、私自身が氏族復帰に対して閉ざしていたものがあったが、今は向こうから訪ねてでも救いを求めて来る、という感覚が日増しに強くなっている。しかし私は訪ねて来るまで待っているのではなく、訪ねて来れるように先ず誘い水を差し向けることが必要になってくる。この電話連絡もそのひとつだ。

2012年11月19日月曜日

聖霊実体

クリスチャンはイエス様に対する独特な印象を持っていて、その印象がメシヤ像としてのイメージとして既に擦り込まれている。イエス様は人間くさいところの全くない神秘対象であって、そのメシヤ像を基準としてしまうから、御父様を再臨のメシヤであるとどんなに説明しても納得しない。大いに人間くさい御父様であられるし、何よりも東洋の顔つきをされておられる御父様には西洋的な神秘性は感じないらしい。多くのクリスチャンにとって説明を受けるまでもなく、そう言ったメシヤのイメージにそぐわない時点でアウトだ。御父様が聖和されて、残された私達は御母様を中心として摂理は進められていく。そのことについては食口誰もが納得しているだろうし当然のことと思うだろう。しかしこれからは明らかに御父様に向いていた私を御母様に向けなければならない。御母様に対する原理的認識は置いておくとしても、私達の御母様の認識は御父様と共におられる口数の少ない御母様だった。しかしこれからはその御母様の印象とは明らかに異なる姿を見ることになるだろう。優しく微笑まれ慰労される御母様だけが御母様ではないということだ。御母様を中心として、と簡単に言うけれど、私達はそう口にしてもその本当の意味を知らない。その意味を少しでも早く私の中に落とし込めることが最重要課題だ。今の御母様は聖霊実体だ。実体のメシヤを私の中に落とし込めることに四苦八苦していたのに、今は聖霊実体を私の中に落とし込めることを早急に始めなければならない。忘れてはならないのは、私は未だ堕落性を内包している身であるから、御母様に対する様々な思い、葛藤が少なからず生じてしまうということだ。それは聖霊実体を私の中に落とし込む過程で通過しなければならない門でもある。私の中に葛藤などの課題を見て、例えば御父様の語られた言葉とは違う、指示とは異なる等の認識は正しいとしてもそこに反発心を覚えるのは、私の中の造り上げた御母様の在るべき姿を頑なに護ろうとするからだろう。しかし信仰年数を経た私の御母様のイメージは聖霊実体とは異なる。私達は聖霊実体の意味をこれから知るようになる。今まで培ってきたものが妨げとならないよう、特に信仰年数の多い者はそれ故の負の遺産を負と認めずに保持してしまい、聖霊実体の次元に越えて行くことができない。レガシーと言う言葉を或るグループはよく使っているが、その中に負の部分が相当入り込んでいて、味噌も糞も一緒になっている。私達も課題に突き当って、圧倒的に多い負の部分を削ぎ落として未練なく捨てるのでなければ、新しい次元の淀みない光や空気や水を糧にできる私を用意できない。

2012年11月16日金曜日

愛を想う

愛、、。この世であっても愛のために生きている。愛を渇望し、愛を捜し求め、そして愛らしいもので満たそうとする。胸に愛を募らせて衝動を覚え、目に愛を溜めて潤いを差し出し、言葉に愛を込めて伝えようとする。愛は胸の内の想いから涙に流れ、涙から言葉に流れて、そして愛を関係性という形に変えていく。食口はここ教会にこそ愛がある、本当の愛があると信じてつどってきた者たちだ。本当の愛を受け取ろうとすれば与えることを先ず願われる。しかし、与えることと、要求されて差し出すこととは異なっている。与えたいのか、それとも与えなければならないのか。与えたい想いで内面が満たされているのか、それとも与えなければならない思いが重く根雪のように踏み固められているのか。与えたい衝動を胸のうちに覚え、救われていない対象への想いが目の潤いとなり、言葉に救ってあげたい想いを込めて伝えようとする。それが神様の想いと合わさる伝道だろう。私の中に要求されるものを重く引き摺りながら、愛の使者とは程遠い恨みの死者と化し、条件的だと言いながらも重い体を引き摺っていくならば、それはみ旨と言え伝道と言えるだろうか。私達食口は私達自身をどう解放したらいいのだろうか。真の愛と口にしながら、言葉の抜け殻だけを携えて、愛とは別もので心魂を満たそうとしているのだろうか。この世の愛は関係性に本当の愛かどうかの証しを求める。いつまでも流れ去ることのない愛なのかどうか。形に変えて手に入れた愛だと思っても、その瞬間から不安は募っていく。硬く握りしめればしめるほど、更に不安は増していく。形として受け取るものに、愛の確かさを見たいがため、ひたすら相手に愛の証しを要求するようになる。その過程で、愛は幻になっていく。証しを求めたら愛は愛でなくなる。形に変わってこそ愛があると思えるような、愛を見て聞いて触れる感覚的なものに貶めても愛は愛でなくなってしまう。愛は流れて渡されてこそ愛であり、留めて握りしめて手放さなければ愛は抜け殻のみを残して逃げて行く。私達は愛をさらに愛らしい愛とするために、敢えて愛の感覚を求めない。私は愛の主体ではなくて、愛が私の主体だ。愛の願いのままにどこまでも従いゆく。

2012年11月14日水曜日

今日の想い 492

日中は晴れ渡って汗ばむほどで、時折吹く風が心地よい秋の顔を見せていたけれど、夜半には窓を打つ音が聞こえてきて、カーテン越しに外に目をやると街灯で反射する路面の鈍い光が揺れて届いた。一晩中続いた窓を打つ雨は朝方になっても止む様子もなく、玄関を出て傘を指しても跳ね返る冷たい雨が恨めしい。昨日から今日への変わり方を思うと、季節は急に手の平を返したように冬へ突入していくようだ。駐車された車も路面も濡れ落ち葉で覆われている。そのまま車に乗ってワイパーをかけたが、フロントガラスにしがみ付いた落ち葉がなかなか取り除けなくて苛立った。今年の秋が去っていく。実りとして受け取った何の感触もなかった今年の秋が去っていく。清平では秋の大役事が行われ、御父様がその場におられ、その席に座っておられると話されたようだが、私はと言うと、清平に来られて清平に行けばお会いできるという感情を、いまだ抱くに至らないでいる。御父様は聖和されたのであって亡くなられたのではないはずだ。しかしどんなに自分に念を押してみても、見えない御父様がそこに居られると言われても、何の感情も抱かない。それは信じないということではなくて、御母様が食事に御父様が訪ねてこられると話されるのと同じように信じてはいる。しかし信じることと、見て聞いて息遣いを感じられる御父様を体験するのとは異なる。私は何がしかの形で体験できる御父様を求めているのであって、そこにおられると言われて安堵だけしても何の意味もないと思ってしまう。私は思い上がりで傲慢なのだろうか。確かにそうだろう。そこに居られると言うなら訪ねるべきだろう。私の中に御父様への切羽詰ったものがあるなら飛んで行って当然だろう。私の内面は揺れ動いている。壊していない死の概念と、新しく、まだ形に成り切らない聖和の概念とがぶつかり合って揺れ動いている。死んで亡くなられた御父様ではなく、聖和された御父様だという感情が私の中に育っていない。

2012年11月13日火曜日

今日の想い 491

形から入ろうとする者は既に形に嵌め込まれていて、新しい世界の入り口はその形を拒んでしまう。形成されていた概念を壊すのでなければ、新しい真理は許容できない。新しい真理が私を拒んでいるように思えるけれども実は自分自身が新しい真理を拒んでいる。本体論が理解できないとか原理と大して変わらないとかというのは、そんな状況に自分が陥ってしまってそうなっているのだろう。自分流に理解した原理を物差しにして本体論を受け取ろうとするから、本体論の入り口にすら入れない。何も分かっていない自分が、神様を本当に知りたい、御父様を本当に知りたい、霊界を本当に知りたいという強い動機で本体論に向き合わなければ、未だ見えぬ真理に対して既に私の中にフィルターが幾重にもかけられていて届くものも届かなくなってしまう。思考を超えた思考、すなわち思考そのものの次元を上げなければならないし、その為には私の感情を超えた天の心情に通じなければならないし、本体論の講義を通して私に働く神様の意志を見なければならない。講師は自分の口を通し神様が語られるものとして身を委ねるのであり、講師自身も語るものを通して学ぼうとされる。講師に神霊が宿り神霊が語るのを私達は見ているし聞いている。勿論講師自身の内的姿勢が重要でありその準備にも十分時間を割かなければならないが、聞いて受け取る側の内的姿勢も講師の姿勢に働きかける。語るもの聞くものが神霊を迎えるために一つになろうとして、その授受の動きが活発となり、講師受講者一体の境地において神様が顕現されるだろう。本体論に自分から働きかけるのでなく、それが真理なら私を納得させられるはずだと受身の態度を取り続けて、棚からボタ餅が落ちるのを待っているだけで真理が向こうから訪ねてくるなどと思わないほうがいい。それは神霊からすれば傲慢極まりない。受講するのは外的には受動的姿勢であるけれども、私の中から心魂を取り出して神霊の宿る講師の前に供え物として捧げるほどの能動的意志を差し出す必要がある。語られる言葉の中に気絶するほどの真理が隠れている。それを取り出し受け取ろうと思えば否定的私の部分との熾烈な戦いが繰り広げられるはずだ。講師の戦いも激しいものがあるが、受講者の戦いもそれに劣らず激しいものがある。本体論の講義を受けて何の変化も受け取れないなら、私に働くサタンは勝利宣言したということだ。

2012年11月11日日曜日

今日の想い 490

基元節まで100日を切ろうとしている。御父母様に繋がる食口としての意識がある者は、基元節を迎えることで何らかの思いもよらない事態に突入していくことを感じている。基元節を越えて存在できるかどうか、それは外的体としてではなく内的霊的存在としての私が基元節を越えて立ち続けることができるかどうかと言うような事態かもしれない。今は混沌の只中にある。かつて多くの人間になるべき心魂が地球と共にあった。しかし混沌期を越えることができずにどの心魂存在も地球から去っていった。唯一残った心魂存在がアダムとエバだった。よってアダムとエバは人類始祖となり得た。アダムとエバを先祖の起点にする地上の人類は、堕落人間でもあるけれどもそれ以前に混沌期を通過して居残った人類でもある。ここで初めて明かすけれども、私はひとりの神智学徒でもある。シュタイナーを通して私のみ言葉への認識や理解は大きく変わった。それまでの私のみ言葉に対する理解は実に外的表面的なものだったと言える。シュタイナーは先の人類始祖の事柄を宇宙記録(アカシックレコード)を遡って霊視している。それは丁度受精に於いて、億の精子が淘汰されていって唯一つの精子が卵子とひとつになる過程と似ていると私は思ったし、後になって御父様が神様の精子の話しをされたことで、更に私の中でその話が事実であるという確信に変わっていった。神様と大宇宙にとっては御父様は混沌を越えて残った真の種としての精子であり、御母様は真の卵子であるとも言える。そう言い切ってしまうと誤解を生じかねないが、御父母様に対する認識の一つの側面でもある。御父母様を通して神様の精子が受精する。アダムエバに於いてはエバが堕落してしまった為にアダムも堕落し、神様の精子は受精できなかった。しかしこの基元節をもって神様の精子が受精される。御父様が勝利宣言をされたのであり、御母様も勝利の位置に立たれたことを御父様は明言されておられる。御父様が基元節の前に聖和されるという驚天動地の事態が起こり、私はその事実をどう受け取っていいのか混乱し通しだったけれども、肉体を持たれない御父様であっても基元節を迎えることができ、神様の精子が授精されるのはその通りだろうと思われる。今まで様々な摂理を立てて来られ、様々な勝利宣布が為され、その都度儀式が行われてきたが、全ては神様の精子が受精する為の道のりであり一里塚であり、そしてその受精の瞬間を基元節に見ようとしている。そして昼の神様は目に見える形で活動を始める。

今日の想い 489

御父様が話されたように、昼の神様、夜の神様は存在する。しかし頭で理解しようとする悟性人間は混乱する。神様が一なる御方であるのに、二なる神様が存在するということ自体矛盾している。神様という言い方を用いなければ、創造以前の神様の在り様、創造を始められてからの神様の在り様という言い方なら理解への道筋が見えてこないでもないが、御父様は二なる神様が存在するような言い方をされた。先ず私達が悟性人間であることを踏まえなければならない。堕落人間でありながら概念形成ができる、要するに思考できるということだ。神様を一なる御方と理解しているが、堕落した私が働かせる悟性の上での理解であって私が神様と一体となって神様そのものを体験している訳ではない。私は無知の存在であり、一体となって無知を克服したいと常に問い続ける必要があり、それは知としての理解もそうだがそれに留まらず感情としても意志としても問い続ける必要がある。原理を知る私達であっても今もって神様についてのことは殆ど無知に等しい。万が一でも知的に問い詰めて神様の証明が私の中でなされ、昼の神様、夜の神様についても理解がなされるとして、しかし実感もできないし体験もできない神様は私に取っては未だに無知の領域でしかない。御父様に取って昼の神様も夜の神様も体験しておられ、会話もされるだろうし通じ合う接点も持たれて話されることであって、私達の悟性的に理解したいという次元を超えておられる。もっと言えば私達が悟性として、知的理解として神様に向き合うこと自体既に距離を置いていると言える。原理を知る私達だけれども自分流に知っているのであってその理解を正しいものと思うべきではない。原理は正しいけれども私の理解は不十分だと言うこの認識を失ってはならない。御父様に昼の神様、夜の神様について尋ねれば、既に何度も触れたと怒られたという話を聞いたことがある。私達の理解、私達の神様の概念が御父様の理解と概念から異なるものであることを先ず認めて申し訳なく思うべきであるのに、私の概念形成、理解を正しいとした上でそれに見合うような説明を求めること自体が狂っていると言うことらしい。私の理解に立って問うこと自体既に御父様と異なる堕落的位置を特定してしまっている。御父様からすればそう見える。だから怒られる。自分の判断を正しいとした堕落したエバと同じ位置だ。原理をどれだけ学んだとしても、原理を真理として受け入れない位置に立ち続ければ原理的解釈を論理に持ち込むことはできない。私達は原理に立った位置でアダムエバ天使長の関係性、カインアベルの関係性を論理に持ち込むことに何の疑いも抱かない。非原理から見て原理の論理を理解できないように、私達から見て御父様の話される昼の神様、夜の神様が理解できない。それは私が復帰の途上でストップしたままだと言うことだ。自分の理解、自分の判断に満足して、それを疑うこともなく、問いを立てることもなく訓読しているということだ。昼の神様、夜の神様を少しでも理解したいと思うなら、先ず昼と夜の概念を正しく形成することだろう。そうすれば昼の私(目覚めている私)、夜の私(眠っている私)を正しく理解できるようになる。そして二つの私がどう関わっているかも理解できるようになる。それ以上述べると非難の対象になるだろうし、御父様がその通りだと印を押されない限り戯言でしかない。

2012年11月8日木曜日

今日の想い 488

マルコ伝二章には、群衆のために近寄ることができないイエス様に近付く為に、屋根を剥いでつり下ろすまでしてもらった中風を患った者の話がある。ここで誤解すべきでないことは、中風を癒してもらうためにイエス様のもとにつり下ろしたのではなく、罪の赦しを請うためのものだったということだ。子よ、あなたの罪は赦された、とイエス様に言われた時点で中風の者は赦しを得て満足したのであり、そこにいた律法学者の内心を読み取ったその後のやり取りがあった後の、床をとりあげて家に帰れと中風の癒しを得たことについては彼に取って付属的なことだった。聖書の理解の足りないのは私だけなのだろうか、つい最近まで中風を癒してもらうためにイエス様に近付いたのだとこの個所を理解していて恥ずかしく思った。イエス様の当時、ある霊的な方法で病を癒すことは、現代に於いて医者が薬を処方して直すのと同じくらい普通であって、それを特に奇跡とは思っていなかったようだ。だから病を癒す為だけなら別にイエス様のもとに行く必要性はなかった。当時、罪の認識と地上的なものとの繋がり、すなわち罪と病や生活苦との繋がりを認める為には信仰でしかない。中風を患った者は病から罪への認識を深めたはずで、そして罪の認識からイエス様こそ救い主だと信じたはずで、イエス様はその信仰をみて罪の赦しを与えた。しかし今は闇雲に信じる必要性はない。み言葉を受け入れた私達は罪と地上的なものとの関係を先ず蕩減のみ言葉知識として認めて納得している。現代に於いては信仰と悟性的認識は切っても切れない関係にあって、敢えて盲目的信仰を強要されることはない。だから今は信じて義とされるイエス様当時と異なり、侍って義とされる時代にある。イエス様当時では信じることに犠牲を払う必要があって義とされたが、今は理解に犠牲を払う必要はない。その代わりに信仰の上で慕い侍るためには犠牲を払う必要があってそれが義とされるということだ。義とされるとは精誠として受け取られると言うこともできるだろう。私達は御父様を再臨のメシヤとして信じていると言う言葉に偽りはない。しかし信じる私から慕い侍る私になるためには、知識としてのみ言葉から感情(内的実感)としてのみ言葉、更に衝動(意志発動)として受け取るみ言葉になっていなければならない。

2012年11月6日火曜日

今日の想い 487

反対する者や批判する者が発生するからこそ、それらに対抗する善の位置を高めていくことができる、と言うこともできる。ひとりの個人やひとつの群れが成長し発展する過程で、何の障害もなく成長し発展することなどない。或る段階で必ず外部からの挑戦を受けるだろうし、内部に於ける葛藤を経て、屈せずに乗り越えた時に大きく成長し発展するものだ。外部に出た者が教会を指弾し、それに触発されて私達の内部に於いて葛藤がもたらされるのは、或る意味避けられないし、起こるべくして起こることだとも言える。反対する者、批判する者は先ずカイン的なものが彼らに働きかけ、そして拳を上げるのを神様が許可して、彼らはカイン的立場で旗を揚げる。そして迎え撃つ者、収拾する者はそれを受けてアベル的なものが彼らに働きかけ、より善なる位置に押し上げられるのをサタンが許可して、彼らはアベル的立場で旗を揚げる。復帰歴史ではカイン圏の中にアベル的立場で旗が挙げられたが、アベルの位置にある教会でそれは当て嵌まらないと私は思っている。そしてアベル的立場で彼らを収拾し吸収するなら、教会は大きく成長し発展するだろう。それを通して教会は次元を上げたレベルに押し上げられるはずだ。アベルカインの常として、カインの存在を認めなければカインの背後にあるサタンは益々勢いを強めさせ、アベルへの仕打ちも強いものとなっていく。教会が反対意見、批判意見に対してダンマリを決め込み、何もないかのように無視するなら内紛の火は燃え上がってそれなりの犠牲は覚悟しなければならないだろう。反対する意見、批判する意見はあって当然だ。しかしそれがアベルに対する徹底抗戦、教会自体を粉砕することへ向けられるならカインではなくサタンだ。食口誰しもが多かれ少なかれ教会に対していろんな思いがある。しかしその思いが正しいのかどうかは私と言う狭い視野ではわからない。いろんな事情があって今の状況があるわけで、組織の秩序への敬意を払った上で私は私の位置と立場でもって、そして教会の責任者もいろんな位置と立場があり、そこに立つ者が決めたことへの敬意も最大限払って意見すべきだ。本質を見る者は表面的なことに左右されず、もちろん見物人のように外から眺めている訳ではないのでそれなりに翻弄されるのは事実だが、だからと言って内的霊的に立てた本質的柱までぶれることはない。ぶれるどころか試練を通して益々太く強固になる。内的霊的なものが主体であることを知りながら、この世と何ら変わりなく外的表面的なものだけにくちばしを突っ込むことに汲々とするなら、神霊に繋がり神霊を柱として備える私にはなれない。アベルとして立つ者にはアベルとしての霊的品格がある。カインとして異を唱え旗を揚げる者がいるなら尚更アベルとしての霊的品位を保って対するべきだ。おもねるでもなく、かと言って子犬のように吼え続けるべきでもないが、言うべきことははっきりと言うべきだ。

2012年11月5日月曜日

今日の想い 486

私達が身を置く堕落世界には堕落世界なりの善悪観、道徳倫理観があるのであり、その観念が依然と私達の念頭にあるならその観念で教会の行動を測ってしまうだろう。私達が、願われる万物を復帰して捧げる過程で、堕落世界の観念から外れる方法でなされたとして、それに対する負債や嫌悪感を持ち続けるのは先ず堕落世界の観念を正しいものと認識した上でのことだろう。それ自体は決して悪いことだとは思わない。この世にはこの世なりの立てるべきものがあり、常識があり、それを無視して復帰できるはずがないからだ。しかし天の摂理を僅かでも理解している者なら、立てるべきものの順序は自分の中で明確にしておくべきだ。天の願いを優先すべきなのか、それとも先ずこの世の道理や観念を宛がうべきなのか。急がれる摂理への要求行動が、この世の観念として頷けるものとして活動できればそれに越したことはないが、そこまでの実力も知恵も余裕もなかった。勝利する為には手段は選べなかったと言えば反感を買うだろうが、もしこの世の道理に合わせた遅々とした活動で、御父様の勝利圏に一役買ったとはとても思えない。献金要求というのは我々の便宜上の言葉であって、御父様が献金そのものを願われているのではない。御父様が願われたのはあくまで精誠であり、精誠をどう形にするかとなるとこの世で権威のあるお金ということになる。この事実を言いがかりだ、結局は金だと言うのであれば、それ以上の説得の言葉を述べる意味はない。世界中の金を集めても御父様の価値、戴いた祝福の価値の何の足しにもならないと私は確信している。更に言えば自分を含めた人類全ての生命よりも御父様の存在は尊いと確信している。だから差し出す献金に精誠がこもっていなければ、そのお金は何処かの地に流れてしまうだろう。献金要求に不平不満を抱いて差し出しても、やはり何処かに流れていってしまう。敢えて俗な言い方をすれば精誠を買って戴いて神霊(心情)を対価として受け取る。自分の思いとしてこれだけ頑張った、これだけ献金した、これだけ犠牲を差出したと思っているかも知れないが、対価として受け取った心情が自分にあるかを問うてみるべきだ。自分の中に心情として戴いたものがないのなら、差し出したものは精誠を込めたものではなかったという結論に至る。もし受け取る心情の価値を認めないなら、最初から御利益を求めた御利益信仰でしかなかったということだ。

2012年11月4日日曜日

今日の想い 485

自分は何のために生きるのか、何の願いがあって生きたいのかさえぼやけている。そして生きることの意味がわかったと思っても油断すれば直ぐにぼやける。生きることの意味を問わずにただ生きたいというのであれば、生への執着、しがみ付きだと言われても仕方がないのであって、生死を越えた位置で霊としての柱が立ってはいない。あらゆる哲学思想を凌駕するみ言葉でありながら、先人が開拓してきた精神の足元にも及ばない意識基準であって、それではみ言葉を受け取った意味は何だったのだろうかということになる。総序にあるように幸福を追い求める人間であるけれども、執着心という堕落性は本来その欲望を満たして幸福にはなれないにも拘わらずその状態を請う(乞う)ことだが、生きて何をすべきかを問わずにとにかく生き延びたいというのであれば、み言葉とは程遠い自分であると思った方がいい。ただ生きることのおまけに信仰があり、その信仰として信じるものに御父様が属しみ言葉が属しているだけだ、と言われればどう反応するだろうか。本当はみ言葉が全てであり、み言葉があって私という存在があり、そして私が肉体をもって生きることの重要性はその次にくるべきだ。真理と神霊に生きるべき私達がずれてしまって、妥協と肉の想いに傾いている。信仰の形骸と生活重視に傾いている。私の中に燃え盛るものがくすぶり始め、今の生活と安定を犠牲にしてもあまりある理想を失いかけている。かつては受動的にそれらを私の中に見ていたけれど、今は私が能動的に燃やす必要があり、理想を描き続ける必要がある。御父母様によって生まれ変わり、新しい生命を与えられた者としての証明はそうしてこそ為されるだろう。何のために訓読するのか。真理が私の中に燃え盛るためであり、神霊としての理想を希望を喜びを掲げ続けるためだ。何時間訓読しようが何ページ読もうが、ただそれだけで悦に入り満足していて、何処の誰が私達を羨望の眼差しで見上げ、教会に本物があると近寄ってくるだろうか。それでもまだ読まないよりは読んだ方がいいと、諦め気分で御父様は呟かれるだろうか。

2012年11月1日木曜日

陽暦陰暦

陽暦なら陽暦、陰暦(天暦)なら陰暦、どちらか一方を使えばいいように思うけれども、御父様が両方使うようにされたのは陽陰両方使うことに意味があるからだ。太陽が地球に及ぼす影響が人間の精神形成と精神文化形成への影響でもある。四季のある地域に精神文化が発展してきたことを見ればそれは明らかだ。太陽の傾きによる春夏秋冬の季節の移り変わりが、人間の生命体の中に概念を認識する魂を培う。それは昼の目覚めている状態のことであって太陽暦は意識圏の暦だ。一方で概念の認識ではなく、すなわち思考ではなく、気分、感覚、想像といった概念とは別物も人間は別様に認識している。芸術的な深い感性をもった人々に共通して言えるのは感情の波の激しさであり、感性が際立つ生産的時期と何らイメージやインスピレーションが発動しない閉塞的時期が交互に来るものだ。それはちょうど月令で月の満ち欠けが14日毎に起こるのと似ている。交互に来るものは眠りの無意識の状態で生産的力が霊界から注ぎ込まれる14日間の時期と生命力を補修するのみの生産的力が受け取れない14日間の時期に分けられる月のリズムと同じであり、陰暦は無意識圏の暦だ。月は地球から分離したのであり、地球のかつての状態を月は表している。精神形成、すなわち心魂の形成は、地球が今の状態になって地球と太陽との位置関係の下で生じ得たことであり、一方地球と月との関係は今の地球以前の状態から保ってきた関係で、太陽の光のない霊的光によって心魂形成の担い手、土台を用意してきた。太陽の力は昼の目覚めている意識状態(地上)に働き、月の力は夜の眠りの無意識状態(霊界)に働いている。陽暦は地上の暦であり、陰暦は霊界の暦だ。