2012年12月17日月曜日

今日の想い 505

基元節を間近に控えているのに、しかしその日を迎える何の準備ができたと言うのだろう。何の条件を供えたと言うのだろう。何の準備も供えもなく、基元節を迎え再祝福に与ろうとしている。どんな顔をして迎えたらいいのだろうか。受けるに値する何もありませんと、本当は祝福を辞退すべきなのだろうか。私達はひとり残らず厚顔無恥だ。祝福泥棒でありながらも、それも知らなければ恥も知らない。それでも、皆当たり前のように祝福を受け、私も再祝福に与るのだろう。しかし受ける者としての本当の課題は、その祝福に耐え得るかどうかだ。受けるときにそれに耐え得なければ祝福が私を裁く。宝くじに当たった人が、その後どうなったかを見届ければいい。確かに人生は一変する。自由に使える金が目の前にあれば、あるだけ使ってしまう。使った後、また普通の人生に戻るだけだと思っている。しかし戻れない。使うことで自制心を失うからだ。責任のない自由を謳歌してしまえば、自由には必ず伴う責任とのバランスが取れなくなる。そして破綻する。更に人生も破綻する。それと同じことが祝福にも言えるのかもしれない。皆、祝福の価値を知らない。価値を知らずに受けてしまえば、祝福の重さを抱えながらその重さを認識できない。抱えきれない霊的その重さは確実に存在するのに、それを認識できない。霊的重さを認識できずに祝福という霊的自由権を使ううちに、霊的責任とのバランスが取れなくなる。そして霊的な柱が壊れていく。私達が再祝福に与るにおいて、せめてもの重さを認識しなければその祝福に耐え得ないだろう。せめてもの重さとは私の死生決断だ。この生命を賭して絶対信仰し、絶対服従するという覚悟をもって臨むのでなければ、必ず祝福が私を裁くだろう。