2012年12月27日木曜日
今日の想い 511
本体論の核は絶対「性」にある。この絶対「性」の概念を私の中でどう構築するかが問われている。性という場合、御父様が性に対して認識している概念と、私達の観念とは異なるものだというスタンスに立たなければ、御父様が絶対「性」を持ち出されて話される前後の意味合いが通じない。堕落世界で性という観念には、直接的感覚が全面に押し出されている。性、SEXと聞けば条件反射的に或る感覚的悦楽が全面に押し出されて想起される。霊的に堕落した原因で肉的感覚的な堕落が結果となったので、この堕落世界の感覚的なもの性的なものは絶対「性」ではなく堕落「性」だ。だから既存の感覚的なイメージが伴う時点で既に絶対「性」とは異なっていると思う。それでは絶対「性」の概念をどう構築すればいいのか。ひとつの解く鍵は誰もが気付いたに違いないひとつの疑問にある。それは御父様がその言葉を使われるとき、絶対「性」なのか絶対性の意味で使われているのかの戸惑いだ。堕落性が堕落の「性」と切っても切れない関係にあるように、絶対性も絶対「性」と関係しているはずだ。と言うより、絶対「性」も絶対性も御父様にすれば同義語であるという可能性もある。何々性という言い方を私達はよくするが、それは性質を言っている。個性は人格としての性質であり、品性は道徳的な性質をいうが、こと精神的なことに言及する場合、性質ではなく性稟と言うべきかも知れない。全ての存在は或る陽性と陰性の一体化で存在しているように、性稟としての精神的現れにもその陽性、陰性がひとつになって性稟となる。要するに有形無形に限らず全ては凹凸の一体化の結果を存在として見ている。そして一体化には必ず中心となる想いがある。心情と言うべきかも知れない。心情を中心とする凹凸の一体化、即ち「性」であり、万物世界に関する限りは神様の心情を中心とした凹凸の一体化を現象として、或いは結果として見ていて、そこに堕落の要素は伺えない。元素(鉱物)次元、生命次元に限る凹凸ではそうだが、そこに心魂次元が関与すると途端に絶対的な基準に反する性が、現象(偽りの愛)として、結果(偽りの血統)として現れる。絶対と言われれば、絶対「性」の前に絶対信仰、絶対愛、絶対服従を語られたのであり、絶対信仰、絶対愛、絶対服従を通して絶対「性」の概念が構築されるはずだ。だから絶対信仰、絶対愛、絶対服従の柱が立たない限り、絶対「性」を語れない。