2012年12月28日金曜日

今日の想い 512

彼らが確信犯であることが、既に彼らが改心して帰ってくることが絶望的であることを示している。ああ言えば上祐で、どんな証拠を出したとしても、どんなに理路整然と彼らの間違いを説明したとしても、思い込みを彼らの信仰として譲らないし、上祐ばりの論理で持ってどのようにも反論してくる。確信犯である以上、論理展開でどうこうできる段階ではない。基元節の開門は既に目と鼻の先だ。基元節を超えてどうなるかは地上人間には完全封印されていて、誰もそのイメージを今描くことはできない。驚天動地の事態になることだけは確かだけれども、誰もそれが何なのかわからない。古い天地は崩れて滅び、新しい天地が生まれるというのは、霊的見地に立つことで表される言葉だけれども、私という存在の基底に霊があり、霊が古い天地に杭打ちされたままで新しい天地へ移籍できなければ、古い天地と共に消え失せてしまう我が身かも知れない。救いが完成されたということは、その救いを否定すれば別の救いの可能性はないということだ。確かにイエス様の霊的救いは完全な救いではなかった為に、イエス様を否定したとしても救いの可能性は残されたが、お父様は完成完結された為に、御父様の子供とされて懐まで入りながらも否定してしまえば、新しい天地へと救い出され移籍できる可能性は絶望的だといえる。御父様が完全な救いを差し出されたことは、別の角度からいえば救いを否定してしまえば永遠に裁きから逃れられないということだ。その恐ろしさを理解していない。そう言うと恐ろしいから信仰していると捉えられるだろうから畏怖という言葉を使うことにするが、霊が畏怖で消え入ってしまう。心が恐ろしく感じることと霊が畏怖で消え入ることとは別次元のことだ。基元節を間近に控えているのに、教会がどうしてこんな頭を抱えるような事態になったのだろうと食口誰もが憂慮しているが、事実をいうと、私達が願いに応えられなかった為に必然的に起こったというのが蕩減の見地から言えることであり、しかし私達に取っての恩赦であり救いは、この踏み絵を超えることを責任分担として教会側に立つことで、開かれた基元節の門に入ることが許される、再祝福に与らせて戴けることだ。私達は御父様が願われたことごとくを失敗し、敗北の墓碑を連ねてきた。それでも基元節を超えさせたい、再祝福に与らせたいという真の父母である親としての想いを、この踏み絵を勝利することでサタンへの条件として用意されたと見るべきだ。だから兄弟喧嘩だ、親子喧嘩だというような理解で無視したり、見物人になりさがったりすべきではない。私の信仰路程で培った全ての心情を投入して、基元節前に敢えて聖和された御父様に対し精誠の限りを捧げるべきだ。