魚は殺して食べているし、牛や豚も殺して食べている。人は生き物を殺しているのに、人が人を殺すことは許されない。生きる為に食べ、食べる為に生き物を殺生しているのだから、その殺生は許されると言う。しかし生き物が犠牲になることを許しているのではなく、それは人間の言い分に過ぎないだろう。もし食べる為に人を殺すなら、その殺人は許されるとでも言うのだろうか。生き物を殺すことは許されるのに、人を殺すことはどうして許されないのだろうか。死ぬとはどういう意味があり、殺すとはどういう意味があるのだろうか。生き物が死ぬ意味、生き物を殺す意味と、そして人が死ぬ意味、人を殺す意味の違いは一体何だろうか。これらの問いは人間が精神的存在であるから出てくるのであって、先ずもって精神が存在していてその上で肉体があることを認めない限り、生命の尊厳を問い、これらの問いを立てる意味すらないだろう。歴史上にもこの地上にも、殺人を犯した人は山ほどいる。自分では手を下さない殺人指示を含めれば更に増える。中には戦争を含めて大量虐殺を命じ、加担した人間も過去には多く存在していて、そういった人間が存在するのも人間が精神的存在であるからだ。弱肉強食の動物界に於いて、大量殺戮はあり得ない話だ。人が死の意味を問うのも精神的意味を問うているのであり、殺人の意味を問うのも精神的意味を問うている。殉教という問題を考えるときに、生命を犠牲として捧げる一方で、捧げさせる執行側がいる。殺す人がいて殺される人がいるのは同じだが、殉教では自分が殺されるとは言わない。愛に報いて供え物になると言う。戦争という問題を考えるときに、やはり殺す人がいて殺される人がいる訳だが、殺した相手個人を責め恨みを覚えるので無く、生命を国の犠牲として捧げるという理解がある。寿命が来れば死ぬわけだけれども、寿命を決める天によって殺されると言う言い方もできる。そのように死という意味、殺し殺されるという意味は、同じ肉体生命を失い失わせる事柄であっても、その意味合いはひとつに括られるものではなく、様々な精神的意味合いが存在している。イエスキリストの死と、一人の堕落人間の死の意味合いが全く異なることを考えれば、それぞれの人間の死もそれぞれによって意味合いが違ってくる。私達は肉体の死を死亡とは言わない。聖和と言う。それはただ言い方が異なるのではなく、精神的意味合い、更に霊的意味合いが全く異なっている。もっとも簡単に表現するなら死亡は不安と恐怖の圏内に留まり、聖和は平安と愛に昇華する。人が人を殺すことはどうして赦されないのか。子供に聞かれ、誰かに聞かれ、一言で説明できるような問いではない。人間が精神的な存在であることを理解し、愛の尊さを理解していくなら、愛がかかわり愛が投入された生命、愛の実体化としての生命の尊さも理解していく。