2012年12月19日水曜日

今日の想い 507

思春期の頃、都会へのあこがれを持ったのは何故だろう。何が私を都会へと駆り立てたのだろう。この地上世界に生まれ落ちるつもりはないのに、押し流されるままに産道を流れて、気がついたら私という人間を認識していた。そんな生への受動的な位置で、暗く、寂しく、寒い故郷で、いろんなものに慄(おのの)いて暮らしていて、その息詰まる生活からとにかく逃げたかったのだろう。明るい都会、賑やかな都会、そして暖かい都会に行けば、訳のわからない脅迫感から逃れられると思ったのだろう。いろんな光が鏤められ、いろんな色合いに溢れ、感情を潤したり高めてくれる旋律も流れ、都会はこの世の天国のはずだと思った。しかし、都会という天国は幻想に過ぎなかった。私は魂の深層、霊界を対岸で見ていた位置から感覚世界の都会へ逃げ込むことで、幻想の中に身を置いた。感覚世界の花や実だけを受け取っていると誰もが信じているが、花や実を追い求めれば追い求めるほど感覚世界の汚れを魂に付着浸透させ、それによって自分の霊が蝕まれているということに誰も気付いていない。感覚欲望を満たしてくれる甘くて美味しいものはサタンの愛という偽りであり、逆に苦くて避けたいものには神様の愛に通じる本質が宿っている。霊的感性がないか霊を否定した位置であれば都会はこの世の天国だろう。集合的に生活しながら、しかし内的霊的には益々個の中に留まって他とのバリアを厚くする。感覚的欲望を満たしながら、しかしどこまでも自分の霊を地獄の底に追い遣っていく。堕落的心魂は呼吸できても、愛の本質を呼吸する霊が呼吸できない。その息苦しさを覚える者は正しく御父様に出会えるはずだ。しかし心魂の呼吸の苦しさから救いを求めた者は、御父様を知り共に歩んだとしても、どこかで離れていってしまう。確かに今の都会は物だけを求める人間の餌場としての都会ではない。しかし今の都会は霊を切り離して心魂のステージ、とりわけ感覚を満足させる心魂の呼吸に留まっている。真の愛が関与され、霊の成長、霊の呼吸を満足させる新生都会が地上に現れる時がやがて来るのだろうか。ひょっとして、それを地上天国というのかも知れない。