2012年12月6日木曜日

今日の想い 498

イスラエル民族が待望したメシヤ。メシヤが来さえすれば全てのことから解放され、彼らが世界で秀でるであろうと思っていた。選民であっても堕落人間は堕落人間であって、メシヤの本来の意味を正しく捉えることができず、彼らなりの洗い清める者としてのメシヤのイメージ、彼らの願いを成就してくれるメシヤのイメージを持ってしまった。その固着したイメージを捨てることができずにイエス様に対してしまったから、待望したメシヤであるイエス様を十字架に付けてしまった。クリスチャンが待望した再臨のメシヤ。聖書を何度も何度も読みながら、聖書に描かれたイエス様のイメージを刷り込み、天の銅鑼が鳴り響いて全ての万民が見る中を雲に乗ってこられるイエス様を待ち望んだ。その固着したイメージを捨てることができずに御父様に対すれば、到底彼らに受け入れられる御父様ではなくなってしまう。御父様を再臨のメシヤだと認識して慕い集まってきた食口達はどうだろう。3年で地上天国ができると人参を前にぶらさげられて歩んで来たものの、時を重ねて歩むほどに人参は遠ざかっていくようだった。蕩減摂理を感謝で対してきた食口も、いつしか蕩減という名の苦痛に変わってしまった。蕩減を苦痛で捉えれば蕩減を払うことにはならないだろう。感謝で対しなければ蕩減にはならない。御母様が我々の不足を訴えられるのはその観点だろう。アベル的期待感で支えられていた食口はその期待を見失うようになるとカイン的期待を求めるようになる。蕩減に対して希望的側面を見失えば、蕩減と聞いただけで身が竦み、絶望的に捉えてしまう。カイン的感情の領域に留まり囚われている限りは、たとえ天国が地上に現れたとしても見ることもできなければ入ることもできないだろう。霊界で天上天国に迎えられるとしても、犯した罪を首にかけて生活しなければならないとなると、天国は私に取っては地獄ということになってしまう。それと同じ道理で、罪を白日の下に晒すことに清清しさを覚えてこそ天国に住めるように、苦労や痛みという犠牲を払うことに清清しさを覚えてこそ蕩減を払えるのでありその実感もあるはずだ。御母様は感謝の生活で心と体がひとつになると話された。犠牲を払うことに清清しさを覚えてこそ感謝の生活になるはずだ。蕩減のイメージの固着から脱して、蕩減を払う実感、その実感を感謝する実感を捕らえてこそ、愛を呼吸する私を生きることができる。洗濯機の中でかき回されることを恐れ拒み続けるなら、御父様は私をどう洗い清めるのだろう。波風に当たるべきときは身を縮めて体を強張らせるのでなく、両手を思いっきり広げて委ねるのがいい。