2012年12月8日土曜日

今日の想い 500

人間誰しも残酷な面を持っている。私の中にも残酷さが眠っている。残酷と無邪気は同じ顔をしている。子供には無邪気さがあって、大人の精神が関与しない行動を子供は取っている。成長するに従い精神性を帯びてきて無邪気を主管する人格を備える訳だけれども、大人になっても無邪気を主管できないか、或いは意識的に主管せずに存在する大人がいる。そういった狭い子供から広い大人になると、狭域では無邪気だったものが広域に広がると残酷になる。無邪気も残酷ももともと同じ存在だ。同じように無鉄砲であり、同じように破壊的だ。子供の場合は知恵も記憶も能力も限定的である為に、周りのものを壊す程度だけれども、大人に成長すれば知情意の発達と共に破壊度を増してくる。無邪気を主管できない大人の在り様は、その創造性の顕著さに見ることができる。破壊と創造は一面の裏と表であり、破壊性が際立つ者はその創造性に於いても際立つ。それが善の創造であっても悪の創造であってもだ。作家や芸術家は創造性が要求されるが、特に歴史に名を残すほどの人物は影の部分の破壊性にも富んでいて、その多くの場合、破綻的人生を見ることができる。同じようにこういった人物が政治権力に関わると、革命的であったり破壊的であったりする。先に触れたヒトラーは芸術的感性が鋭い、言い換えれば過敏なほど神経質だが、それは子供のように無邪気なまま大きくなり、その潔癖さ故に自分の嫌うものを許容することができない存在になってしまった。よって極限まで排他的になる。人類史上類を見ないこの残酷性の表出は、幼児的存在に権力を持たせたことによる悪魔の生贄だ。誰もが多かれ少なかれ残酷な要素を持っている。それを否定して見ないようにするだけでは、環境用件が揃ってしまうとこの醜い顔が現れてしまう。しかし敢えて抉り出して見ながら、どう使うかによっては善の使用に大きな力となることだろう。自分が今まで培ってきたものを未練なく壊すことも必要だからだ。