2012年12月25日火曜日

今日の想い 508

霊的なものが見えないわからないという霊的感性の欠如が、私達の認識を誤らせ、判断を誤らせる。原理を通して神様を知りサタンを知り、霊界を知り摂理を知っている。知ってはいるけれども実に頼りないおぼろげな認識のまま今に至っている。私にどう神様が働きかけ、どうサタンも働きかけているかの認識もできずに、どうして外界に対する私の認識が正しく、判断が正しいと言えるのだろうか。内的霊的なものが漆黒に沈んでいて何もわからないから、ひたすら導き手である御父様に従い歩んできた。御父様と共に歩んだ中で、見えないものへの感性をいくらかでも養ってきたはずだろうに、御父様が聖和された今、再び感性の芽を漆黒の彼方に追い遣ろうとする者達がいる。私は御父様と共に歩んで培ってきたものを土台とする以外方法はないはずなのに、またしてもこの世に於いて慣れ親しんできたこの世的感覚を認識と判断に持ち込むなら、実体の御父様に従い侍り歩んできた路程は一体何だったと言うのだろう。み言葉は確かに難しい。特に八定式以降のみ言葉は難解を極める。しかしわからない、私に触れるものが無いからと言って、そのみ言葉が重要ではないということではない。だけれども何の躊躇もなく、置き去って当然のように、わからないまま放置している。前にも記したように、私という存在はミクロコスモス(小宇宙)の存在だ。どれほど難解であっても御父様のみ言葉や勝利内容は私の中に存在している。御父様が勝利された勝利圏が確実に私の中に存在していて、その核心が私を霊の存在たらしめている。み言葉がわからない、摂理的勝利内容がわからないとは、私の中で起こっていることがわかっていない、私という霊的存在の基がわかっていないと言うことでもある。わからないまま地上的感覚をもって認識し判断するなら、確実に私の中で起こっていることと、私が外的に為そうとすること、為したこととの大きな矛盾性が私自身を破壊に繋げるだろう。熱いか冷たいか、御父様に絶対服従するかどうかはっきりすべきであって、み言葉をなまかじりして、自分に都合のいいように解釈し当て嵌めるならば、霊的整合性が合わずにみ言葉に焼かれてしまう。