2012年12月7日金曜日

ホロコーストミュージアム

蕩減復帰摂理を学べば、ユダヤ民族が大量虐殺された原因を、蕩減原則の観点からイエスキリストを十字架につけてしまった民族的連帯罪としている。しかしそれは縦的原因であって、横的な地上的意味で打つ者、打たれる者の間に持ち込むべき説得説明にはならない。無理に持ち込んで、ヒトラーとナチスが彼らの蕩減の手助けをしたのであれば、大量虐殺の罪を問われることは無いということになってしまう。蕩減を持ち出すときには個人を問うなら私と天との関係性だけ宛がうべきだろうし、家庭の蕩減をいうなら私の家庭と天との関係性だけ宛がうべきであり、私と他人の関係性に蕩減をどうこう言うことはできない。敢えて口にするなら私は蕩減を口にしたのではなく相手と恨みを売り買いしたということになる。ユダヤ民族の民族的連帯罪をどうこう言えるのはユダヤ民族自身であり、彼らの罪をあげつらうなら彼らへの心情の配慮に欠けたことになり、逆に、時が来れば必ずイエス様や御父様に対する我々の罪を指弾されるだろう。ワシントンに、スミソニアンの美術館、博物館群から少し外れてホロコーストミュージアムがある。そこで600万のユダヤ人大量虐殺、ホロコーストの詳細を見て聞いて知ることができる。ホロコーストとはアブラハム路程に出てくるハン祭、供え物という意味のギリシャ語だが、同じ意味合いの生贄(いけにえ)という言葉で現代人がイメージする感情がその言葉により近い。敬虔なユダヤ教徒はその宗教的言葉を宛がうのをおそらく好まないだろう。館の中に入ると赤レンガのゲットー(ユダヤ人区域)を思わせるような作りになっており、4階に亘るエクシビションの三階は収容所さながらの雰囲気が漂っている。一通り見た感想を敢えて言えば、言葉を失うとしか言えない。鎮魂の言葉も浮かばない。人類歴史の事実、それも近代の事実としてあったことを感情が拒否して納得しない。私は広島の出身だから平和祈念館は何度も訪れているけれど、そこで引き摺り込まれる闇とは比べ物にならない闇の深みの奥に導かれる。私が世界平和の為、人類の救いの為にという言葉がどれ程軽々しいか思い知らされる。神様神様と簡単に口にしているけれども、この言い知れぬ闇の深みをも抱えられる神様を理解しているとはとても言えないし、配慮さえもしていないだろう。真の父母を知り、摂理の一端を担って歩むことの責任の重さ、恐ろしさを一方で覚えなければ、本当の意味での、真の父母と共にある、み旨を歩める感謝は捧げられないだろう。ミュージアムの一階ロビーに下りる手前に、最後の展示物がある。空調されていても異様なカビ臭がそこには漂い、誰もが鼻に手をやる。そして無言で見つめる。そこには広く一面に褪せた黒いものが盛り上げられている。積み上げられ、その重さに潰された何千何万という大量の古びた靴だ。ガス室に入る手前で全裸になり脱いだ靴が残っていて、無造作に積み上げられたそのままを展示されている。彼らが殺された後でも、脱いだ自分の靴を探し回った霊の痕跡が、そこから伺える。