2012年12月11日火曜日
今日の想い 501
考えてみると、御父様が聖和されたにもかかわらず、何も無かったように世界はまわっているし、変わりない日常を暮らしている。一体どうなっているのだろう。私もその流れに埋没するように自分の毎日が流れていく。何もなかったようにご飯を食べ、何もなかったように仕事をこなし、何もなかったように笑顔で会話し、そして何もなかったように眠くなる。肉の親が亡くなったとしても暫くは喪に服すだろうに、私にとっての御父様の存在はそれほど簡単に処理できるものだったのだろうか。これが聖和から数年が経ったと言うのであればそうかも知れないが、たったこの間の出来事だ。涙のかわく間もなくとはこのことだ。聖和式から三月と経っていない。御父様が存在しない地上でありながら、何の不自然さも覚えず、前と変わりなく暮らしていける自分自身が信じられないし、恐ろしい。X-dayを想定しながら何度も何度も聖和された後の自分の在り様を探ってみた。何度も何度もイメージを試みてみた。聖和されれば私の中で欠落するはずの何かがあったはずなのに、しかし聖和という事実を踏まえながらも、こと外的な事柄に関しては同じように流れている。これで本当にいいのだろうか。いや、決してそんなことはないはずだ。何かのフィルターが掛けられていて欠落を欠落と感ぜず、それを壊せないまま堕落生活圏に取り付かれている。少なくともこの内面の足掻きを認識している今のうちに、確かな聖和された御父様と繋がる糸を、因縁を、結びつけることだ。今のうちに精誠で因縁の糸を手繰り寄せなければ、糸を切られた凧のように飛ばされて、本郷の地には永遠に辿り着けない自分になるだろう。御父様との因縁の糸を自ら断ち切り、去っていった兄弟達がいる。中には有名人もいてたまに映像で見かけたりする。何の憂いもないように、誇らしそうに、化粧栄えする顔を晒している。彼女や去った兄弟達の内面には、何のわだかまりも、僅かの引っかかるものもないのだろうか。因縁を切ったことの清清しさだけを覚えるなら、神様を随分遠ざけてしまったとしか言いようがない。そういったように、御父様が聖和された今、その事実とは関係なく毎日の生活の流れに何の不自然さも覚えないなら、私達も同じように神様から、御父様から、神霊から遠ざかっている。