2012年12月21日金曜日

お金への想い

事業に於いては、利益をはじくのではなく利益を産む、という理解がなければ、事業の成長を見ることはできない。店を経営していて、商品原価にいくらかかり、人件費にいくらかかり、光熱費、家賃等含めた諸経費にいくらかかるか、というような見方は、表面的なものを数値に直しただけであり、本質の部分、利益という新しい価値への芽吹きとして接するのでなければ、いくら結果数値を睨んでもそれは死んだ数字でしかない。死んだ数字から何も生まれない。数字の生きた部分、お金の生きた部分に働きかけることができれば、利益を産む。価値創造ができる。私達は神様が存在されることを知っている。しかし私は無意識にも神様が存在されない前提で行動していることが多々ある。知っているけれども、感覚や気分の部分、意志の部分で否定している自分がいるからだ。感覚的に実感できないからだ。だから信仰が必要になってくるといえる。変な言い方になるが、数字の生きた部分、お金の生きた部分に対しても信仰が必要になってくる。生きた数字、生きたお金として捉えられない私が、霊が関与し、生きて働く部分を少しでも認識していく為には、数字の霊、お金に関わる霊への信仰が要求される。量よりは質に関心を持つことがよりお金に対する霊的部分、本質に関わるのであり、ただこれだけ入った、これだけ出たという唯物的捉え方ではなくて、入った過程とそれに込められた想い、出した理由とそこに込める想いを掴み取ることが、よりお金に対する霊的部分、本質に関わることになる。神様に対して祈祷するように、お金に対しても言葉をかけ、尋ね、お金の想いが伝わってくるほどになることが大切だ。共産主義者だけが唯物的なわけではない。物を物として対し、お金を物として対している時点で、十分に唯物的だ。唯物的と生産的、創造的とは相反し、唯物的であれば一切は消費でしかない。