2013年3月27日水曜日
今日の想い 550
御父母様に対して絶対信仰、絶対服従、絶対愛を捧げようとする者こそが本流だろう。どんなにみ言葉を研究して摂理的事柄を理解するよりも、彼らはみ言葉をみ言葉の生命として、力として受け取っていると思うし、盲目的でもあり大勢の流れに身を預けてしまうようにも見られるが、しかし天を優先しているのであり、神霊は彼らを通して最も働くはずだ。み言葉だ訓読だといいながら、しかし頭ばかり大きくなって、御父様が意図された訓読の目的とはずれてしまっている者達がいる。流し読みも褒められたものではないが、論理性に大きく傾くのも知性だけを満足させるものにすぎないだろう。晩年期に語られたみ言葉には多くの理解できない部分、謎の部分があって、その解読に精神を注ぎ込みたいとも思うが、誰もが願われるみ旨の要求とは言えないだろうし、関心はあってもやはりそこは学者に任せるべきだろう。或る者は教条主義的であり、また或る者はこのように悟性第一主義的であり、それが駄目だと言うのではなく、そうあることが私のみ旨なのかどうなのかを祈祷して問うてみる必要がある。そういう食口に限って祈祷を蔑ろにしているし、祈祷さえも教条主義的であったり悟性第一主義的であったりする。私が一個の肉体存在であるように霊としての私も一柱の霊的存在だ。だけれどもこの体が自然環境から独立して存在できないように、霊としての私も独立しては存在できない。柱は柱で支えられない限り柱として立つことはない。私はこの地上にどうして生を戴いたのか、どうして御父母様に帰依することになったのか。確かに願われたものがあり、それに合わせて願うものがあるはずだ。私は私として自由意志を持っているけれども、自由意志先ずありきではアダムエバが堕落したのと同じように堕落してしまう。肉的堕落の前に霊的堕落が起こったように、霊的堕落をして神のように賢くなりたいという、神に反してまでも意志選択を果たしたように、私には私の願われたものとしての存在目的を捨てるなら、それは私の霊的堕落だろう。だから絶対信仰、絶対服従、絶対愛だ。
2013年3月24日日曜日
今日の想い 549
私達は悟性人間であるので、どうしても論理的に理解できるようにとみ言葉に接する。勿論、御父様は論理的説明をされる時は、頭のいい者達を屈服させる見事なほどの論理的説明をしておられるけれども、み言葉に対するとき常に論理を満足させるものとして接するのは、み言葉の生命を受け取る姿勢だとは言えない。み言葉から生命を受け取るのか、或いは死んだ論理だけを受け取るのかは同じみ言葉に接っしていても雲泥の違いがある。私達は先ず悟性人間であることを捨てて、心情人間だという観に立てなければ、み言葉から生命を受けて私自身を再創造することはできないだろう。明日には死ぬとわかっている者に対して、み言葉の論理的説明をいくらしたとしても、その人が満足することはない。理屈が欲しいのではなくて永遠の命に至るものを受け取りたいという渇きがあるからだ。死への不安と恐怖は霊界の論理的説明から消えるものではない。自分が悟性人間で悟性を立てて存在している訳でもなく、ましてやこの物質人間として肉体に依存している訳でもなく、本当は私という存在は死を越える愛に生きる心情人間であることを心が認識し心が悟った時に、死への不安と恐怖は自ずと消えていく。み言葉の論理的説明も勿論大切で、悟性人間に取ってはそこを入り口にしない限り受け付けないが、既に愛に生きる心情人間であるという観の芽が育っているのに、未だに自分を理解させるものが欲しいと、そうしなければ動けないと、論理説明への執着をしてみ言葉に接するのは訓読の履き違いのように思うけれどもどうだろうか。私は行動することの意味への理解が先ずあって行動するのか、それとも愛の衝動から行動するのか、私は後者でありたいと思うし、御父様の言葉や指示や行動も全て愛の衝動から、心情が動機となってのことだと信じて疑わない。私は悟性に仕えるのではなく愛に仕えたい。
2013年3月19日火曜日
今日の想い 548
時に、例えようもない減少感、孤独感がひたひたと私の内面に押し寄せてくることがある。愛を求めてきたはずなのに愛は随分遠のいているようで、オアシスだったはずの内面は砂漠と化していくようだ。信仰路程もここまでくれば多くの賛同を得ているはずが、私の周りには子供も含めて誰もいない。すべてが幻だったのだろうか。求めていた愛も、追いかけてみたら態のいい褒め言葉だけが残されただけだった。どうも愛を求めていたのではなく、体裁を繕うことに終始していたということか、、。受け取る愛もなければ、与える愛もない。愛が何かさえ未だにわかってはいない。愛がわからずにどうして愛することができるのだろうか。妻を愛する、子供を愛する、コミュニティーを愛する、親族氏族を愛する、国を愛する、地球を愛し世界人類を愛する、御父母様を愛する、天の父母様を愛する、愛することで私は存在することを赦されるだろうに、愛がわからず愛することができない。御父様が示して下さった愛を、私は愛として受け取ってはいなかった。愛することができないにもかかわらず、私は親としての位置がある。親としての親心がある。罷りなりにもみ言葉が入り、思い込みではあったとしてもみ言葉に沿うた子供の幸せへのイメージがある。勿論それは御父様を受け入れることであり、み言葉を受け入れることであり、そして祝福を受け入れることだ。親心としてそうあって欲しいとひたすら願いながら、しかし願いの通りにはならない。ズタズタに切り裂かれたこの親心を抱えることに、何の意味があるのだろうか。そこに御父様の勝利圏は介在しているのだろうか。私達がイエス様の位置で、イエス様が十字架の摂理を甘んじなければならなかったように、祝福家庭それぞれの十字架があるはずだ。それはそれぞれで異なるのかも知れないが、私の十字架は明らかに切り裂かれた親心だろう。親心が脇腹を突き刺されて血がドクドクと流れて行く。イエス様がエリエリレマサバクタニ、「わが神、わが神、何故に私をお見捨てになったのですか。」と口にされたように、私は御父様の御前で、この親心が見捨てられましたと叫んでしまうのだろうか。御父様が目を伏せて、黙して応えられないのは良く分かっている。私がこの十字架を生涯背負い続ける覚悟がないなら、もし手を添えてしまえば私の蕩減と責任分担に介入されたことになる。この道はどこまで行っても犠牲の道だろう。犠牲を避けようとしても別の犠牲が尋ねてきて、犠牲を越えても次なる犠牲が待ち構えている。そうこうするうちに、この生命を犠牲にすることなど何の躊躇いもなくなる。
2013年3月18日月曜日
今日の想い 547
私達の地上天国のイメージも、地上天国を創建するための私達の役目も、何が善で何が悪かの判断も、私達の信仰そのものも、御父母様や御子女様に対するイメージや個人的感情も、今一度洗いなおしてみる必要があるだろう。今、ああだこうだと言える条件を備えたものが食口の中に一人でもいるだろうか。私達は何も言える立場ではない。御父様が聖和された事実、D-DAYである基元節を超えた事実、聖酒を戴いて恩赦を受け再祝福を受けた事実、私達はその事実を内的霊的事実として内的霊的にどう受け取っているのだろうか。私達の内面の変容が見られないなら、それらは只の外的な事実でしかないのであり、御父様を知らない者達、み言葉を知らず摂理を知らない者達と何ら変わりは無いだろう。内的霊的に眠り込んでいるままの私は、外的な認識に留まっていることだけでよしとしている。私達は本当のところ何もわかってはいない。内的霊的事実を知らないし、内的霊的な認識にいたってはいない。わかっていないのに私の判断をしてああだこうだと言い、それによって選択を狭めるならば、真理と神霊が働く私達にどうしてなれるのだろうか。私達、統一食口の初代エクレジアは、確かに外的な意味では何もわかってはいなかった。三年で地上天国ができると信じ、祝福二世達が増えれば、それは罪のない者達、神を証しできる者達であるはずだと、祝福血統の結実をこの世の者達が仰ぎ見るはずだと信じ、非原理であるサタン世界はカタストロフィーに崩れ去ると信じ、今にしては摂理に対する外的な事柄の認識はほぼ外れていた。しかし、内的霊的な事実は当時の方が明るく、今日の認識よりも格段にはっきりと認識していたのではないだろうか。あの当時の希望やみ旨への衝動、御父様に対する熱い想いこそ内的霊的事実に即したものではなかったのだろうか。御父様の口からは勝利であるとか、完成であるとか、み旨が成就されたかのような印象が出され、しかし私達はどうかというといろんな問題が矢継ぎ早に噴出して、全く逆の印象の中に沈み込むというこの御父様と私達の乖離は、地上的なもの、外的なものに心魂を掴まれて縛られ、監禁された状態に私達が陥ったということだろう。私達は心魂を監禁されている。拉致監禁された食口達が心魂の監禁を免れたからこそ戦っているように、心魂を監禁された者の解放の闘いは、その深みにある霊によらなければならない。今の時ほど深い祈祷の必要性が感じられることはかつてなかっただろう。深い祈祷に入り、神霊による心霊の立て直しが急務だ。
今日の想い 546
祝福を戴いて、一人の男性が一人の女性を妻として迎えて家庭を為し、夫婦一体圏が為された時、御父母様を中心として神様がアダムの体をまとってエバを相対として迎えることができたように、ひとつの神的存在がその男性の体をまとってその女性を相対として迎えたと言えるのだろうか。結婚の霊的意味を問うなら、見えない神的存在が見える地上存在とひとつになる為であると言えると思う。夫婦の横的一体化を通して天と地の一体圏が為されるということだ。しかしその夫婦一体圏が完成される為には三代圏が確立されなければならないし、先ずもって祝福を通して結婚するのでなければ、心情動機が神様から出発してはいないために、形だけ結婚しても堕落圏に留まったまま縦的神的に繋がる結婚ではない。祝福の権威を持たれた御父様による祝福結婚は、サタンとは関係の無い位置で、神様が男性をまとうことのできる第一条件だ。ヤコブが祝福を戴いて、ハランの地で家庭的基盤、氏族復帰としてのエソウヤコブ一体化の為の財物基盤、そして天使との闘いで主管性、もろもろを取り返したように、祝福家庭としてただ祝福を戴いただけであるなら、夫婦一体圏が為されて天地の結婚を私達の中に成就することはできない。家庭的基盤すなわち三代圏の確立、氏族復帰の為の経済基盤、さらに何らかの霊的戦いを勝利して霊界に対する主管性を復帰と言った、願われる氏族復帰に対してそういったものを確立しなければならない。御父様は複雑極まりない天宙の事情を解き明かされ、神様を説得され、堕落人間が本然の人間に、本然の人間が完成人間に、その道筋を身を持って通過され私達に示して下さった。私達は御父様が示してならして下さったその道のりを行くわけだけれども、御父母様を中心として神様の結婚がなされたように、それぞれの祝福カップルの夫婦一体圏を中心としても神様の結婚がなされるべきだろう。その考えは少し履き違えているのだろうか。
2013年3月16日土曜日
神様の結婚式
神様にとっての創造の目的は先ずエバの創造だ。エバを創造するためにアダムを創造したと言ってもいい。エバという地上実体を創造されて神様はエバと一体となられる為に、神様がまとえるアダムという地上実体をも必要とされた。エバをアダムの一部からつくられたと言うことは、エバを取り除くまでのアダムはエバをも含んでいたとも言える。ここでも誤解を覚悟で言うなら、エバを取り出す前のアダムは両性具有だった可能性が出てくる。両性具有のアダムからエバの女性を取り出すことでアダムは男性となり得た。天宙の創造世界が有形無形の実体世界足りえたのは、陽性陰性のよりはっきりした分離がそうさせている。有形世界である地上世界はいかなる次元の霊的世界よりも陽陰ははっきりしている。アダムとエバを現代の地上人間と同じ様相をしたアダムとエバだと信じたいところだけれども、同じ人間存在ではあってもその様相は想像もできないだろう。先ず当時の地上世界自体が、今日のように固体液体気体と明確に分離もされてはいないし、鉱物植物動物と明確に分離もされてはいない。アダムの創造にも幾星霜の年月がかかり、アダムから取り出したエバの創造にも幾星霜の年月がかかり、更にはエバがルーシェルに誘惑される過程にも相当量の年月がかかったものと思われる。現代人の感覚で人類始祖の堕落を理解しようと思えば、象徴的に捉えることに徹底しないと誤解を生んでしまう。食口の堕落論の感覚的イメージは八割方誤解を含んでいる。ルーシェルを一人の人間存在と同じようにイメージし、人間が人間を誘惑すると同じイメージをルーシェルとエバとの関係に持ち込んでしまうから御父様が後から語られる内容と辻褄が合わなくなる。ものみの塔の地上天国イメージも、私達の霊的事柄に関するイメージもそう大差はない。御父様が御母様を完成したエバ、神様の相対としてのエバとして準備されるために、地上的には理解を超えた、そのごく一部を私達は聞いてはいるけれど多くは私達には闇の中の事柄で、エバ再創造のための秘儀中の秘儀がなされて神様の花嫁として御母様は立たれた。救いをもたらす為の長い長い人類歴史を消化される復帰もさることながら、更なる悠久の創造歴史を立て直す再創造をも踏まえて経なければ、神様の花嫁として御母様を準備できない。神様の結婚式は基元節のその日であったとしても、結婚時代として今尚その運勢圏は続いている。地上だけの結婚ではなく、霊界のあらゆる次元を貫き神界を超えておられる神様御自身が結婚されるという意味を問うなら、基元節のその日に結婚式は終わったとは言えない。
2013年3月15日金曜日
今日の想い 545
人生は登り、下り、そしてまた登り下りというような、振幅運動を繰り返しながら前進している。私が個人的気分、個人的運勢の振幅運動だけに関心を持つなら、人生は虚しい繰り返しだという悲観に主管される。もし完全な個人主義者がいるとすれば、この虚しい繰り返しから脱する為には自分を抹殺するという選択しか残っていない。前進することの意味、すなわち進化することの意味がわからないからだ。個人主義者はそれらの言葉を持ち合わせていない。実は因縁の法則、蕩減原則を理解していれば、気分と運勢は貸し借りの関係と同じように帳尻を合わせられるようになっていることがわかる。気分が昇りへのベクトルを取る時は運勢は下りへのベクトルを取っている。あり得ないことではあるけれども、人生の全ての期間、気分の落ち込み(感情的犠牲)に終始するのを許容し受け入れていたならば、運勢的には貯め一方の人生であったと言える。来世は大きな運勢圏のもとに人生を送る。しかし実際のところ人間は霊的存在、精神的存在であり、縦軸である霊的位階と横軸あるいは平面の社会的広がり(家庭、氏族、民族、国家、、、)の多次元複雑系の存在様相である為に、縦軸のどこに位置し横軸のどこに位置するかで、気分の様相も異なるし運勢の様相も異なる。個人主義者にしてみれば、家庭を持って家族の為に自己を犠牲にして翻弄される気分は最低だと思うだろう。しかし家庭を持って味わう気分は独り者のときの気分とは次元を異にしている。愛の深み、より密度の高い愛の世界に生きている。
2013年3月13日水曜日
今日の想い 544
私達は本当に目覚めているだろうか。み言葉を知って受け入れていると思っているけれども本当にそうだろうか。み旨の道を歩んでいると思っているけれども本当にそうだろうか。御母様の指示を受けて願いに応えようと思っているけれども、本当にそうだろうか。受け入れているつもり、歩んでいるつもり、応えようと思っているつもりだけであって、私の真意は服を着た狼のように都合のいいらしさを装った別物かもしれない。今までも、摂理の願いに応えるべく目標を掲げ歩んでいたけれども、只の御題目でしかなかった。今まで為し得なかったということはそういうことだ。御父様が聖和された現実を、御父様がこの地上にはおられない意味を私達は本当にわかっているのだろうか。眠りから醒めきれずにまどろんだ私のままでは泳ぎきって目標の対岸に到達することはできない。相も変わらず御題目のまま、御題目を唱えながらも溺れてしまって、神霊の呼吸ができずに霊的に溺死してしまう。先天時代と後天時代の違いを身に染みて感じ取り、御父様がこの地上におられて、甘えもし赦されもしてただ御父様に纏わりついていただけの私から、御父様が聖和されて、もはや甘えも赦しもなく、残された私の責任分担を果たす決意と覚悟を備えなければならない私に変わっているのかどうか。私達は本当に目覚めなければならない。起きて地上に生きることで目覚めているという霊的錯覚に陥ったままでは、み言葉を知って受け入れてはいないし、み旨の道を歩んでもいないし、御母様の願いに応える私でもない。
今日の想い 543
心情を蹂躙する者は、自分の言動を心情蹂躙だとは思っていない。そこにどれだけの相手を縛りにかける言葉、要するに呪いの言葉を使って吐きすてているかの自覚がない。悪なる感情衝動のおもむくまま、相手を想いやる良心を宇宙の果てに追い遣って、吐き出す言葉に何らの主管統制もかけられてはいない。私はこの呪いの言葉を自分にかけられて初めて、兄弟に対して、従業員に対して、同じような言動を私もしていたかも知れないと気付かされた。気付かされて自分自身が恐ろしく思えて身震いがした。ひょっとしたら私は、経営と称して呪いの言葉を使っていたのかも知れない。おそらく相手との遣り取りの中に、パワーハラスメント的な、給料を下げるだとか辞めさせるだとかのニュアンスを込めるということが、相手への縛りをかけることになっていたのだろう。勿論甘えが蔓延すれば店は傾いてしまうので、責任者として公的に強く出る場合も必要だが、そこにどんな感情が込められているかをよくよく見極めなければ、相手の心情を害してますます溝を深めて事態を悪化させてしまう。私の心の奥をえぐるような今回の仕打ちが、私に一体何の落ち度があって寝るに寝れない程の内的痙攣、内的麻痺を浴びせられるのか、最初はまったく理解できなかったけれども、今となっては、確かに天の父母様は生きて私に訓練を与えておられると身にしみて感じ取れた。天の父母様は反面教師を私に宛がわない限り、私は悟ることができなかったはずだ。
2013年3月7日木曜日
その日に教えられたこと
その日はウィンターストームの警告が出ていた。開けようか閉めようか暫く悩んだが、マネージャーが連絡してきてその口籠った言い方の意見に傾いて、結局閉めることにした。確かに少しは来てくれるかも知れないが、ペイする程ではない。そう思ったからだ。この週末に向けての食材のオーダーは入れていて、その日は配達日であったので誰もいない店に行って待機していた。待機しながら外の様子を見ていると、一日閉めるつもりではいたが、どうも外出しないようにと恐れさす程でもないらしい。20センチも30センチも積雪すると言っていたが、既に昼をまわっても大したことはない。植樹のエリアに少し積もっている程度でパーキングや道路の雪は消えていて問題ない。いろいろ思案して、ディナー時間は開けようと決めた。既に皆には一日閉めることを告げているので、近隣に住んでいる従業員だけ声をかけて営業することにした。しかし蓋を開けてみると意外と来客があり、通常の半分の戦力にすれば結構忙しかった。営業確認の電話が何通かあったが、それらの御客さんが皆、足を運んでくれた格好だ。揺れた一日を振り返ってみた。朝方には、閉めると決めてしまうと閉める為のいろんな理屈を並べている。そして夕方には、開けると決めて開けて営業する意味を並べている。結局自分のひねり出す考えなぞ別の何かに意図的に支配されていることになる。それが私の意志によるものだとも言えるが、その決定した意志がどこから来たかとなると、その背後を深く尋ねる必要がある。全てに於いてそうだろう。そうなると私の認識などあってないようなものだ。従業員一人一人に対して、私なりの認識がある。この従業員は役に立っているけれどもあの従業員は足を引っ張っている。大雑把にそうやって振り分けている。その認識がひとりひとりの人間性を踏まえたものではないことは十分わかっているつもりだ。それでも確実にその認識でもって、店としての全体像を捉えて経営している。それは私のカインの部分であり、カインを立ててしまえば状況におもねる無難な経営はできるとしても、店として発展する為の従業員の成長は見込めない。確かに安全な道、無難な道を選ぶということはカインを立て続けることであり、アベルを立てカインに一体化させるのでなければ新たな創造、発展の道は閉ざされることになる。経営に対するこんな理解が浮かんでくること自体、生活や社会活動にも、新しい運勢圏、後天開闢の意識圏が確実に押し寄せている。
先天意識と後天意識
周りのことばかりに目を遣りながら、ひたすら自分のおかれた状況を把握しようとする私がいる。私の理想の実現は、実は周囲によってもたらされるものではないし、置かれた環境との駆け引きで勝ち取るものでもない。私の理想の実現は、私の内面の課題を乗り越えていくことによる内的理想世界の実現であり、よりアベルの位置の私を立て、内的霊的アベルカインの一体化から新たな地上の環境創造の神様が働くようになる。外にある全ての環境は、私の在り様とは異なる別個の在り様だとの認識があるが、実は自分の内面様相によって実体化されるものであることを明確に自分に知らしめるべきだ。だから状況を変えるのも、環境を変えるのも、全ては内面の課題を乗り越えないと何も変わりはしない。私達は長く長く続いた堕落意識を、当然のように正しいものと認識しているから、余程の自覚を促さない限りは先天時代同様、左に右に、周りのことばかりに目を遣りながら尊い時間を無駄に費やすことになる。本当に霊的に明るい者は、目の前に立ち塞がった問題が、私の内面のどこに課題があってどう解決すべきかが見えている。主体は心であり、そう言えば大雑把な捉え方になってしまうが、内的霊的世界であり、外的地上世界はあくまで対象世界だ。対象世界を主体と信じる先天時代の意識を後天時代に引き摺れば、後天時代は開闢時代、勝利された御父様が立たれる天宙の王の時代の意識圏には入れない。先天意識にとっては、後天開闢時代に於いて、先ず外的世界に起こっている現実を現実と捉えてはならない。現実は私の内面、内的霊的世界であって、外的世界は幻想に過ぎないとすら思えてこそ後天意識に目覚めることができる。後天意識は、私の内的勝利、内的霊的アベルカインの一体化によってこの外的地上的環境が創造された、と言える意識でなければならない。先天意識と後天意識の180度の違い、主体と対象の交代、後のものが先になり先のものが後になるという正しい理解、こういった以前とは全く異なる私を見るのでなければ、後天開闢時代の意味もわからないし、後天開闢時代に入ってもいない。
2013年3月5日火曜日
今日の想い 542
あの子が祝福を受けた、この娘(こ)も祝福を受けたと聞けば、同じ二世を持つ親として心から喜んであげたい。皆、純粋な兄弟であるだけに彼らの嬉しそうな顔が浮かんできて、本当に良かったと思う。思うけれども、複雑な気持ちもある。置いてけぼりにされた寂寥感が胸のあたりから広がっていって、笹の葉ででもなでられるように体がさわさわする。軽い減少感なのだろう、さわさわして寒気がする。すでにこの気分は何度も味わって味わいつくし、私には慣れ親しんだ感情だ。大の仲良しの感情だ。所詮あるがままを受け入れて歩むしかない。私には私が背負わなければならない運命があり、そこから逃げることができないなら、両手を広げて受け入れて歩むことだ。運命の中に飛び込んでこそ、運命が私に浮力を与えて持ち上げてくれるはずだ。嘆いたところで何の益にもならないだろう。それは霊的エネルギーの甚だしい消耗だ。宗教性はあるけれども社会性に欠ける二世か、あるいは社会性はあるけれども逆に宗教性に欠ける二世か、一概には言えないにしても大体どちらかに偏る。一世である親にとっては先の二世は善の位置にあり肯定的だけれども、後の二世に対しては否定的であり子供は自ずと親に反発心を抱いてしまう。同じ祝福二世でありながら、一方は親とひとつになって円満であり、もう一方は親とひとつになれずに戦うことになる。この二世の現実にどう向き合っていったらいいのか。この問題に対して私の親としての接し方が悪かったと断罪してそれ以外の回答を誰もくれなかったけれども、自分も人一倍戦い苦悶して言えることは、宗教性があろうがなかろうが、み言葉を受け入れ御父様を受け入れようが否定しようが、それでも親として子供を包み込むべきだ。子供がわからないことも、否定し反発することも、全て含めて包み込むべきだ。御父母様はみ言葉を受け入れた私達だけの御父母様ではない。いまだ復帰されない者も、御父様を否定する者も、さらに犯罪を犯した者も、等しく子として包み込まれるはずだ。包み込んで、私が子供に対して持つ痛みや苦悩以上の何倍もの痛みや苦悩を、胸の内に抱いておられるはずだ。そうでなければ人類を救いたいという人類の父母として立たれるはずがない。二世として祝福を受け、子供の幸せそうな姿に親として安堵してしまえば、もはや痛みや苦悩はいまだ癒えない御父様の御心情を分かち合う位置ではなくなる。私は子に対するこの痛み、この苦悩ゆえに御父様と共にいる。
またまたお金について
お金の価値のわからない者に限って、あれがいいこれがいい、あれをやって見ろこれをやって見ろ、顔を合わせる度にうるさく言い立てる。お金が無い自分には何もできないが、お金がある貴方にはできるのにどうして手をつけないのかと責め立てる。そういう人にとっては、お金がないのは自分の責任ではなく環境の責任らしい。店を任せられている他の兄弟に対して不思議に思うことがいろいろあって、その一つが赤字を出すことに対しての無感覚だ。私は赤字経営は自分を感情の地獄にひきずり降ろすという自覚があり、上がってくる数字に対していつも戦々恐々としている。利益率が落ちてくると罪悪感に苛まされる。私はそうだけれどもどうも他は違うらしい。あいも変わらず、損益分岐すれすれの数字であっても、自分の給料に手をつけることもしないし、かといって人件費もフードコストに対しても手をつけようとはしない。人それぞれでお金の意味が異なり、お金の価値も異なる。私の認識が全て正しいというのではないが、お金の重さに対する認識は明らかに私の方が重く受け取っていると確信している。私にとってお金は重いものだけれども、同時に愛おしくもあり、慰められることもあって教えられることもあり、そして痛い目にあうこともある。お金が出て行けば悲しいし、入るお金を見れば嬉しいけれども、それはまた別の顔をしている。実入りが少なく悩んでいる兄弟は多いが、お金が私に嫉妬を覚えるのを見るようになるなら、貧乏生活からは卒業するだろう。おそらくそこまでお金に関わろうとはしていないはずだ。彼らに取ってお金は只の便利な物でしかない。他の者は私に資金もありチャンスもあるのに何もしないと言うが、私はお金がお金を産むと確信できるまでは絶対に手をつけない。しかし手をつけた以上、命をかけてもものにする。手をつけた以上、失敗も勉強のうちだと言うのは禁句であって、どのような犠牲を払ってでもお金を私に振り向かせる。
今日の想い 541
先天時代から後天時代への産道をくぐり抜け、基元節という節目を超えた今、後天開闢時代で呼吸を始めた私達だ。赤ん坊は産まれれば鼻腔を膨らませて直ぐにも呼吸を始めるけれども、後天時代の呼吸は、先天時代には知ることも関わることもなかった神霊の呼吸を始めることになる。以前も肉体が呼吸しているように霊人体も霊を呼吸をしていると説明したが、後天開闢時代は霊を超えて神霊を呼吸し始める。その呼吸は御父様の御心情で私を満たすのであり、真の愛で私を満たす。要するに真の愛の呼吸だとも言える。私がその呼吸を習得しようと思えば、神霊体験が欠かせない。それは真の愛の体験であり完全なる他体自覚の体験だ。私達はみ言葉を訓読しながら、平面的な棒読みで終わるのではなく、結界を越えて立体的な次元世界、御父様の心情世界に深く入っていく神秘的境地を旅できる私達になるべきだ。そこには御父様の心情が溢れていて、地上世界の知恵を凌駕できる叡智が溢れていて、私の中で心情と叡智がひとつになって結婚する。ひとつになった心情と叡智の合成体としての新しい私は、天の父母様の意志、み旨への熱い想いを受け取るだろう。私は地上に於いては、熱い想いを爆発させる真の愛の原子爆弾だ。
2013年3月3日日曜日
今日の想い 540
私は自由意志を備えた人間存在だ。しかし私は自由を謳歌している人間ではなくて、自由の霊的重みをどう抱えていったらいいのか、その使い道に悩み臆病でもある人間存在だ。人間始祖、アダムエバは自由ゆえに堕落した。自由ゆえに神様に尋ねることを諦めたし(しなかったのではなく諦めてしまったと敢えて言う)、自由ゆえに自己の欲望を優先した。だからアダムエバにとっても、神様にとっても、人間に備えられた自由意志そのものが恨めしい。堕落の結果アダムとエバはエデンの園から追い出されたことになっているけれども、神様の痛みに耐えかね、すなわち彼らの良心の痛みに耐えかねてエデンの園から逃げざるを得なかった。この恨めしい自由意志、本然の人間であろうが私という堕落人間であろうが、この自由意志を抱えている。自由意志故に堕落したものを、自由意志をもって堕落から復帰させ、自由意志をもって生命の木に至らせる。私が祝福を戴いて、私の存在の根源で御父様に繋がることで、気付いたことがある。それは私の中には無かった別様の自由意志が備わったことだ。堕落とは関係のない別の自由意志を刻印していただいた。しかしそれは自己中心的欲望に向かう自由意志に比べれば余りにも弱々しく、さらにそれは自分という存在を否定する自由であり、犠牲にする自由であり、悩み求める自由でもある。私の中のこの自由意志が長子権を復帰し、自己中心的欲望に向かう自由意志が自然屈服するために、私はどれほどの道のりが必要なのだろう。それでも私の中で息衝いていて不断なる精神の高みに向けるために、その活動は止むことはない。それは日増しに強くなって体の外枠を超える勢いだ。御父様が聖和された今、外に見ていた御父様を内面のこの良心とも呼べる自由意志に見ている。良心が息衝き、良心が疼き、良心が私の背中を押し続ける。それは御父様が私の内面で息衝いているのであり、疼いているのであり、私の背中を押し続けておられるということだ。
今日の想い 539
陽暦は三月を迎えた。三月という響きが私に心地よい。全てが芽吹くように私の中にも新しい何かが芽吹く予感がして、心地よい。御父様が聖和されて初めての春が来る。そうかといって季節は戸惑っている様子も伺えず、冬から春への交代手順はいつものように為されているようだ。きのうは直ぐにも芽吹きを誘うような暖かさが大気を満たしたが、今日は打って変わって暖かさは遠のき、冬に逆戻りしたような冷たさが肌を突く。この歳になると寒いから冬は嫌だとか、暑いから夏は嫌いだとかという感情はない。冬も夏も友達であって自然と私に語りかけてくるし、私も語りかける。冬はその知恵を教えてくれるし、夏はまどろむ地球星の中で同じ夢心地を味わわせてくれる。春夏秋冬はそれぞれに長い付き合いで、若いうちは無視もし、突き放していた感情もあったけれど、今ではそれぞれに異なった心地よさがある。それでも私が春に生まれたからなのか、春の訪れには一種の特別の感情があって、それは小さい頃の昔から今の今まで変わらない。私にとって特別の、さらに特別の春が来る。この世でも別れと出会いがこの時期に集中しているように、基元節を超えた新しい春の出発は、先天時代に強く結びつき付き合っていた意識との別れが必要だ。過去に繋がったへその緒を切れずに、そのまま先天時代にしがみついたままでは、新しい次元に超えていくことはできない。春が来る。御父様が聖和されて始めての春が来る。
今日の想い 538
霊界を信じることに留まるのではなく、霊を認識し、霊とわたり合い、霊を主管する霊の主体の位置に立つことで、この世の人間の背後の霊から攻めて、彼らをアベル圏に引き込むことができる。伝道も氏族復帰もその形から、そのイメージから入ろうとすれば、如何ともし難い鋼の鉄壁に押し戻されてすごすごと退散せざるを得ない。しかし私達に残された道が、方法が、氏族メシヤの手中にある。それは霊を動員することだ。協助という言葉を都合のいい言い逃れや責任逃避で使うのではない、確かな霊界の協助を得ることで、背後の霊に働きかけてサタンの城を崩せる。しかし誤解すべきでないことは、霊を動員しようと思えば霊を納得させることが必要で、自動的に協助してくれる訳ではない。霊を納得させる為には私の霊への奉仕、霊への犠牲を霊が認めて霊が私に対して頭を下げるのでなければ、下手に近付いて却って痛い目に合うことになるだろう。私達は清平摂理で先祖解怨、先祖祝福を行った。しかし祝福を受けた全ての先祖が同じ高い神霊基準ではない。地上でも360万双の為に聖酒のキャンディーを配って祝福を与えたが、彼らが祝福を受けてそのままみ言葉を理解し御父様の価値が理解できるわけではない。彼らが前と同じ世界観、認識であることに変わりはない。それは私の戴いた祝福と彼らの祝福とは異なるものだと言うのではなく、あくまで接木は接木であり祝福だが、しかし御父様という本質に繋げられた接点を、強固に力強いものにするか否かは彼ら自身にもよるだろうし、祝福を与えた私達の意識にもよる。同じことが先祖祝福にも言えるだろう。霊界で修練会に参加して祝福に与ったとしても彼らの繋がり具合はピンからキリまであるはずだ。私自身の成長と共に霊を成長させるのも、私自身の教育と共に霊を教育させるのも、その為に先ず霊と接触するのも、氏族メシヤである私を置いて他にいない。その責任感情がない限り、霊を動員し霊の協助を得ることができるなど、努々思わない方がいい。御父様が霊界に行かれて全ての重荷を下ろされただろうか。御父様が人類全ての救いを見ない限り永遠に重荷を背負い続けられるし、ましてや地上天国の基である祖国光復が為せないのにどうしてその重荷を下ろすことができるだろうか。氏族メシヤとしての私達も同じことだ。先祖を祝福しても、家族に聖酒を飲ませても、彼らが御父様の価値を認識し御父様を御父様として慕い侍るまで成長しなければ、死んで霊界に入っても責任感情の重荷は永遠に降ろせることはない。それが親であり父母というものだろう。
2013年3月2日土曜日
後天開闢
遠い太古の時代、地上がまだ混沌としていて全ての輪郭が曖昧だったとき、人間の輪郭も曖昧だった。当時の人間の意識は地上に向いている時より霊界に向いている時の方がはっきりしていた。現代人は霊界へ向き合うときは眠って無意識に陥るけれども、太古の人間は地上に向いているときの方が眠って夢を見ているような状況であり、霊界へ向き合うとき意識が目覚めていた。統一食口は先天時代に於いては或る意味太古の人間のように夢の中で生きていた。三年で天国ができると本当に信じていたし、その地上天国も自分に都合良く描いた天国をそのまま信じていて、同じように霊界の地獄も地獄絵のそれとそう変わるものではなかった。最も夢でしかなかったものは、祝福二世に対してのイメージであり、聖人君子像を二世に期待していたことだった。先天時代に見ていた夢の靄(もや)を未だに掴もうとして生きている自分が残っていて、嫌がる子供も祝福式に連れて行けば霊界が降りてきて一瞬で変われるかも知れないと期待する私がいた。しかし基元節の門を超えながら、夢はもろくも崩れ去った。基元節を超えて後天開闢時代を迎えた意味は、統一食口が思い描いていた夢見心地から、聖水という冷や水を浴びながら目が覚めたことだ。皆は否定するかもしれないが私の基元節を超えた意味は夢からの完全なる目覚めだ。ノアの洪水、アトランティス大陸の消滅の後、太古の人間は夢見心地から覚めながら、霊的感性の遠ざかって行ってしまうのを寂しく思った。復帰された当時、地上天国という理想郷を食口の誰もが夢見ていた時代は、確かにその夢を食べながら御父様に繋がっていたのであり、しかし、これからの時代は地上の現実ではなく霊界の現実を踏まえ、しっかりと目を覚まして御父様の願いに応えていくべき時代だ。統一食口が夢見心地でいたように、この世もまた地上の平和、地上の幸福という夢を見ていた。見ているものは違っていても夢であることには違いなかった。私が基元節を超えて目覚めたように、この世も基元節を超えて信じていた地上の平和、地上の幸福という夢から目覚めることになる。執着していた全てのものが、平和であり幸せであったと思える認識が、空しく流れ去るものだということに目覚めてしまう。本質に繋がった者には後天時代こそが建設の時代であり、創造の喜びを味わう時代だとわかるけれども、本質に繋がっていない者にとっては、形あるものや信頼していた認識が崩れ、不安と恐怖の時代が始まった。
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