2013年5月12日日曜日

御父様の生き証人として

私達は御父様がこの地上におられた時を共にし、その御姿を見、その御声を聞き、その息遣いにすら触れてきた。更に御父様との父子の関係を祝福によって与えられ、その願いを受け取り、その願いに応えようとし、更には怒鳴られ、翻弄され、それでも慕い、侍り、可愛がられ、同じように泣いて、笑って、数々の心情因縁を繋いできた。私達は生きておられた御父様の生きた証人だ。御父様が聖和されたからには、この地上に、もうこれ以上の証人は現れない。私達は願いを受けながら願いに応えられずにきたのはその通りだ。しかし御父様は勝利されて真の父母として立たれた。もし御父様が勝利されていないのであれば、不十分な私達は、その失敗した数々の責任を委ねるであろう後孫の為に泣き悲しまなければならないだろう。しかし御父様は勝利された。勝利された以上、私達の歩みがどうだったかを問われるのは御父様だ。御父様が私達の歩みをどう判断されるかだ。しかし一方で、私達は勝利された御父様の証人でもあるという重大な側面がある。私達、特に一世の存在は、御父様の証人としての私をこれからどう生きるかが伝道の鍵でもある。御父様のツバキ圏内で侍らずとも、私が呼吸している同じこの地上で呼吸しておられるというあの実感は、知らずに生きた者にはわからないし、ましてや御父様が同じ空間におられた修練会や訓読会のひとつやふたつは一世であれば誰でも体験しているだろう。その実体験を貴重に思うべきだ。その時空に刻まれた紛れもない実体験を、私に群がる霊人達がどれ程欲っしているか。訓読会の読み上げるみ言葉が乾ききった喉を潤す水なら、御父様の色合いに染められた体験のひとつひとつは、彼らの霊的味覚を満足させる御馳走だ。私達は生きた証人として、御父様との出会いの数々を、御父様の心情の色合いが見てとれるほどに彼らに差し出すべきだ。霊人達が満足すれば、彼らに導かれて人々が訳知らず私達のもとに集まって来るはずだ。

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