2013年5月14日火曜日

今日の想い 565

批判は、批判する立場と批判される立場とがある。別に批判でなくとも、全ての行為は相手がいて成り立つ訳だけれども、それが善の行為であれば授ける立場と受け取る立場ということになる。批判すればそこで終結するのではなく、必ず寄せ返しがくる。批判ではなく進言だと言うけれども、批判なのか進言なのかはその表面的行為、或いは行為の一部だけを見ず、その動機が何なのか、発言することでどうしたいのかを問わなければならない。ブログに上げた記事は、その投げかけた対象が不特定多数であるので普通善意の進言には留まらない。そこに特定人物についての功罪や善悪を問うのであれば、それは人物評論であり悪意と取られる批判となってしまう。言うべきは言うべきだと思っているのだろうが、当の本人の前で直接口にできるかどうかを先ず自分の中で精査し、更にその上で不特定多数の影響の責任(発信する以上は確実に霊的影響を両者共受ける)も考えて、その上でなければ軽い発信が命取りになってしまうだろう。言葉であれ文章であれ撒き散らしたものは必ず収拾しなければならない。善の言葉は善の実として、悪の言葉は悪の実として、、。霊的に見れば芳一の身体に書かれた御経のように、言い連ねた文言を首にかけて披露しているのであり、更に首にかけたその文言が所構わず声を発して叫んでいる。知らない人の噂を喋りたい衝動に駆られて口にするように、批判し断罪することは酒が喉を通るような魅惑を覚えてしまうだろう。それは己が驕慢心をくすぐる魅惑だ。悪魔がイエス様を高い山に連れて行って全世界を見せた、あの手の誘惑だ。 批判が度を過ぎた者には傲慢な霊が取り付いてしまう。み言葉を通して霊的な認識が少しでもある食口なら、自分のことは棚上げして人のことを言いつらうのではなく、自分の内面にしっかりと目を向けて私が御父様の願いと向き合っているかどうかを問う方が余程重要だ。批判は人格完成者に任せておけばいい。

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