2013年5月29日水曜日

今日の想い 571

悩み抜け抜け男なら、、。このフレーズだけが私の中で延々と繰り返される。諦めもついて、やっと息を継げる海面の表に顔を出せたと思いきや、またも現実という大海の底に引き摺り込まれて、またも絶望的な感情の数々に翻弄されアップアップしている。堕落世界での家庭の居場所は見いだせても、神様主管の真の愛の圏に於いて居場所が見つからない。居場所が見つからなければさしむき出て行く以外ない。当然祝福家庭の理想へ向かおうとする私の心魂は引き千切られる。もはやサタンが失敗の烙印を押すのを今か今かと待ち構えているにも拘わらず、それでも諦めきれずに一縷の望みを繋ごうとしている。私の中の、最も神様が働いていると実感できる部分だ。神様が働いていればこそ絶望的な感情に翻弄される。口を開けて大きく呼吸することなど許されない。現実という大海の底に引き込まれればえら呼吸せざるを得ない。絶望的な感情に翻弄される間はえら呼吸だ。堕落の海の底で祝福として戴き育てたものを根絶やしさせず、生き延びる為にはえら呼吸だ。堕落世界に於いては祝福家庭は魚族に違いない。御父様はこの堕落世界でどう霊的呼吸をしてこられたのだろう。統一氏族圏は御父様を中心とする家族だといっていいだろう。愛する息子や娘がサタン圏の影響を受け、唯物的な平等を唱える黄金万能主義や、人権を中心として神の理想を見る人権万能主義が横行し、神主義、心情主義が先ずあってこそそういった捉え方も正義となるが、先ず物ありき、人権ありきではサタンの目論見のまま動いていることになる。御父様を慕い侍る群れが、まだ聖和されて間もないだろうに、強制献金(?)だと言って献金の使途までをとやかく言うことが天の願いに適っていることかどうか。我々の目に献金使途がどう映り、我々がそれをどう判断しようが、全ては御父様の許可の下で為された事実であることは揺らぎようがない。結果失敗と私が判断するとしても、目に見えない摂理的投入が為されたかも知れないし、御父様が良しとされたのであればそれでいいだろう。後は差し出した者と御父様との関係でそれぞれが判断することだ。強制だと言って恨みに思うなら先ず祈って御父様に問うてみることだろう。借金までしてズタズタになった自分を御父様がどう見られるか問うてみることだろう。その上で行動を決めればそこに負債は微塵も覚えないはずだ。誰かが先導してそれに乗っかるのは自分の責任を回避しようとする思惑が見える。御父様が聖和されて御母様を中心として延長摂理は進められているけれど、御母様は神様の位置ではなく聖霊実体であられるから聖霊的に働かれる。外界におられた御父様は私達それぞれの内界におられ、内界におられる御父様に向かうように御母様は働かれる。私の中に明確に御父様を見出さなければ、それなくして御母様の働きはあり得ないと思われる。御父様を私の内面でどう掴むか、御父様の争奪戦は既に始まっている。私の中の絶望的感情に翻弄されながらも、しかし決してそれで終わらせるべきではない。切実な想いの中に御父様がおられるのを見出し、さらに見出した御父様は勝利への鍵と方法を差出して下さるだろう。

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