2013年5月10日金曜日

今日の想い 564

御父様の聖和に合わせるように、その問題はアメリカ食口の皆の知るところとなった。教会食口に対する信頼の裏切りだと誰もが思っただろうし、み言葉とひとつになるべき私達がもっとも許してははならない状況だろうに、子女様であり責任者でもある御方自らが踏み入ってしまったと思った。もちろん明るみになった以上身を引かれた訳だけれども、その激震は全体も家庭も個人の信仰さえも大きく揺さぶった。その余震や後遺症を引き摺ったまま、今に至っている。これほどの大転覆劇に見舞わされて投げ出され、個人も家庭も取り敢えず信仰生命の綱を繋ぎとめる何かを手探りし、大方はそれよりも母艦転覆という御父様の聖和に向かわなければならないと思って問うことはなかったが、落ち着いて見て再度取り出してその本質を見極めておくことが必要だろう。み言葉と照らし合わせて、そうあってはならない、間違いを犯してはならないとは誰もが思うし、御本人もそう思われただろう。その思いが弱かった、要するに信仰が弱かったと捉えるのは簡単だけれども、私はそう短絡的に捉えられるとは思わない。御家庭のことをそんな単純な律法的教条的に捉えて断罪されるものではないと思っている。人間それぞれに背景が異なるし願われるものも異なる。要するに蕩減内容も責任分担内容も異なる。ましてや子女様だ。子女様とて人間であり特別視すべきではないという意見は外的表面的にはそうだとしても、霊的に特別な立場にあることは否定できない。その子女様はみ言葉がわかっておられない訳ではない。信仰が弱い訳ではない。ストレスもあって一時のアバンチュールを望まれた訳でもない。否定もされ、断罪もされ、御父母様のことも考え、子供のことも考え、地獄に突き落とされることも思い、それでもひとつの愛の形を選択された。それは私の位置でその選択は恐ろしすぎて取れないが、背景も違い使命も異なる位置で敢えてその選択をされたということだ。私達には、決められたある信仰の概念、堕落の概念があって、その概念世界に踏み止まって真の愛を探そうとしているが、概念世界を越えるところにこそ真の愛は関与するのであり、それは頭を振るような私の理解を越えた行動や状況を通して、救いや許しに繋がるものをもたらされることもあり得る。要するに今の私達のステージで判断できない摂理的事柄もあって、未来の私に委ねるしかないということだ。だから断罪したり、逆に子女様ですらということで自らを甘くしたりすべきではない。外的事実を捕らえて、堕落は堕落だというのは唯物的であり現実主義一辺倒だ。外的事実が優先されるなら個人の檻、家庭の檻に入れてしまえば堕落はない。芸術や科学はカインから出てきた。出てくる時は神に反する形で出てきた。後にアベルとひとつになることで芸術も神がとられ神が祝福されるものとなっている。今の銀行システムにしても最初は無いものを有るものとして、要するにユダヤ商人が証券という虚偽を出回らせて経済圏を大きくしていった。当時の金証券という胡散臭いものを善なる経済システムに変えていった。今の世に出回っている堕落的表現内容も、どう変化して神がとられるものとなっていくかわからない。御父様が三大淫女と言われる女性が摂理的重要であったように、子女様の行動が復帰とどう関わりあるのかは、わからない部分の方が大きい。今はっきり言えることは、どんなことが起こっても御父母様に対する信仰や想いを強めこそすれ、否定的に引き下がるべきではない。

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