2013年5月21日火曜日

今日の想い 569

神様は御自身に似せて人間を創られたのだから、人間を研究すれば神様がどういう御方かと言うのがわかる。人間は心と体、すなわち性相と形状を備えた存在であるから神様も本性相、本形状を備えた御方だと言うのはその通りだが、ここでは別の角度から人間という存在を見てみると、先ず、人間は意識を持っているということが言える。人間とは意識を空間的存在、時間的存在に当てて、意識の間断なき放射でもって自我の存在を認識している。眠りという無意識の状態があるが、その状態では自我の存在を認識していない。しかし見えない自分の内面へ意識を当てることもできて、自分という存在の在り様を或る程度は見届けることもできる。人間がそのように外なる世界にも内なる世界にも意識を当てるように、神様も自らを認識する為に意識を持たれたはずだと言える。創世記第一章にあるように、はじめに神は天と地とを創造された。これは霊界と地上界の創造ではなく、神様御自身の他体自覚の創造だと私は見る。天と地、性相と形状という相対的関係は原因と結果であり、性相に留まる限りは自体自覚であり、性相の形状化はその形状創造の僅かな一歩であっても他体自覚なしにはあり得ないからだ。自分に似せた対象の創造に全てを注ぎ込もうとするなら他体自覚なしにはあり得ない。そうして神様は光あれと言われた。混沌としていた地に光を投入して秩序を創造していく。その光は神様の意志であり、意志は意識をして働きかける。人間の意識と神様の意識は比べようもないけれど、明らかに人間の意識は神様の意識、すなわち光あれと言われて秩序立て創造していった神様の意識から来ている。人間は意識という光を内界に当て、そして外界に当てて認識し、判断し、そして創造している。堕落人間の意識は自己中心の意識であって実に暗い光だが、その堕落人間が心情を転換して他体自覚に目覚めるに従い意識の光は明るくなっていく。神様の意識に近付いて行く。意識の光が創造の力なら、この世の堕落人間の意識の暗い光にどうして他体自覚に目覚めようとする心情転換された意識の光が押されることがあるだろうか。まだ我々に自体自覚と他体自覚との間で迷っているからそうなるのであって、死生決断して他体自覚への覚悟と決意を供えるなら復帰への意識の光を弱めることは無く、不可能を可能にする創造の力が働くだろう。氏族的メシヤは先祖の霊的生命、地上の氏族圏の霊的生命を左右する存在であり、永世祝福による霊的生命は氏族的メシヤである私の手に委ねられている。御父様に繋がらなければ霊的生命がないように、御父様に繋がった私に繋がらなければ彼らの霊的生命はない。その認識と霊的生命創造に意識の光は力強く当てられ続けているだろうか。

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