2013年5月17日金曜日

今日の想い 567

基元節を超えたのに何の変化も無く、霊界からの協助を目に見えて受け取るようになるという話だったけれども、そんな様子もないと言う。食口の中にはそんな、当てが外れたような気分で、それでも変わらず離れず教会に居れば何かもらえるものがあるだろうという態度の者達が居る。籍だけは置きながらぼんやりと勝手な天国をイメージしながら、今日も何もなかった、今日も何ら変わらない一日だったと、そう思って暮らしている。何か嬉しいもの、何か楽しいものが待ち受けているはずだと思っているが、そんなものは天からは降ってこない。或るクリスチャン達が、天を仰いで雲に乗って来られる再臨のイエス様を待っているのと同じことだ。受動的信仰観に留まるどころか、乞食的信仰観にまで貶めている。御父母様の嘆き極まれりといったところだろう。献身してみ旨に捧げて歩んできたはずだろうに、初期の軍隊的生活、実績至上主義のタガが外れてしまうと、心は糸の切れた凧で、もう何の役にも立たない状態になってしまったのだろうか。大体霊界が働く内的姿勢も内的条件もなくて、どうして協助して働かなければならない義理が霊界の霊人達にあると思えるのだろうか。先ず、私に切実さがなければ見向きもされない。更にこれだけ犠牲的、或いは献身的生活をしているのだから、、とか、この人物に協助すれば確実に返ってくるものがある、、とか、霊人に対してここまで親身になってくれるのだから、、とか、そんな関係性が大切なのは地上の人間関係と何ら変わりは無い。霊界から何か降りてくるものを期待し続ければ無視され続けるだけだ。私は、はっきりと、この私の内的精誠で霊人達を活かすことが出来ると言えるものがなければならない。私が供えて差し出すからこそ、霊人達が押し寄せてくると言える内的な精誠だ。そうなると霊人達は私を放っておかない。必要ないと言い張っても協助してくるだろう。あまりにも霊界がわかっていない。霊界の捉え方が実に唯物的だ。霊界がわかっていないのにどうして霊界が把握できるだろうか。把握できない霊界がどう協助できるのだろうか。

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