2013年5月25日土曜日

生理的血筋を越えた血統を把握する

マリヤは聖霊によってイエス様をみごもったのではなく、実はマリヤの姉妹エリサベツの夫である祭司長ザカリヤによってみごもった。聖霊によって産まれたイエス様だと信じていたから神の子イエスであり、堕落の血統と全く関係のないイエス様だと認識していたものを、御父様はクリスチャンの信仰を否定するかのようにその真実をあからさまにされた。その意味するところは、天の血統が堕落の血統を繋いできた生理的血統を通して生まれたということだ。本然の血統、堕落の血統という違いと生理的血統とを同じステージでは語れないということだ。私達は堕落の血統と関係のない御父様だと認識しながら、しかし御父様が聖霊によって産まれたとは誰も言わない。御父様の生理的血筋を遡っていけば、堕落の血統を繋いできた私達と同じように、やはりアダムとエバに辿り着くことを知っている。祝福を受けた私達は堕落の血統から天の血統へと血統転換された。その認識は生理的血筋を問うているのではなく、生理的血筋を越えて生きて流れる霊統とでもいうべきものを捉えている。私達が生理的血筋に固執しても、そこに天の心情が生きて流れるのを見るのでなければ固執する意味がないだろう。時として愛と血統が相容れない、愛を立てようとすれば血統が立たず、逆に血統を立てようとすれば愛が立たないという不条理に出会うのかも知れないが、その場合血統を生理的なものとしてのみ捉えている。生理的なものは飽くまで結果であり、結果をして原因を見届けることはできても結果をして霊なる血統とも言うべき原因を支配することはできない。同じように愛についても結果としての愛の在り様を原因としての真の愛と同じ次元で語ることはできない。愛と生命と血統、その中で最も重要視すべきことは血統だ。それは生理的血筋を重要視しろと言うのではなく、もちろん結果として原因を把握する上で大切であることは前述した通りだが、それを踏まえた上で、天の心情が生きて流れる霊的血統の重要性に触れられた言葉だ。堕落と全く関係のないイエス様をこの地上に送る為に、メシヤの為の基台を造成する為、失敗しては蕩減条件を立たせまた失敗しては新たな蕩減条件を、、と言うように、どれ程莫大な天の精誠、地の精誠が込められて来たかを復帰原理を紐解けば理解できる。血の生理的成分をどれ程研究しても選民の血の中に築き上げたものを見届けることは出来ないだろう。しかし明瞭に血の流れの中に投入されてきた、結果として見ることはできない原因的投入、霊的投入が厳然として存在している。御父様が聖和されても、祝福(血統転換)は為され、祝福の血統の中に、御父様は生きて働いておられる。

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