2013年5月8日水曜日

今日の想い 562

人を感動させることの喜び、人を活かすことの喜び、それが伝道活動の醍醐味だろう。その喜びの感覚を掴むと、伝道するなと言っても伝道するようになるだろう。しかし、人を生まれ変わらせるみ言葉の力を私自身が今実感していないと言うこともさることながら、だいたい人は悩み求めているのかという疑問が前提にある。本質的に求めていない人はいないはずだが、その自覚を持っていない人の方が多いだろう。悩み求めている自覚のない人を導くには、先ず関心のあるところから入っていって、本質に気付かせてあげる必要がある。スモールグループ活動はその関心ある部分をして繋げようとする伝道の入り口となる。しかしその辺りから更につっこんで、繋げた人を感動させ活かしていこうという熱情を持ち、祝福までの道のりを見届けるところまで持っていきたいと切に願うのでなければ、入口であるスモールグループの立ち上げにも、言われたから的な動機の弱さが仇となって入り口からのステップアップができないでいる。キックオフ(決断式)で触れられたように、牧会者任せで、そこに繋げればよしというような伝道ではなくて、私が立ち、私が祝福まで、更にそれ以降の霊的生命をも責任を持つという、私が主体の伝道になることが必要だ。今まで、どんな指示が出てどう方針が変わるかわからないといった認識が常にあって、それが伝道に対する無関心の言い訳となっていた。確かに先立つ献金要求に応えることが優先されてきた。しかしこれからはその言い訳は成り立たない。私は先ず伝道に対する意識、伝道に対する関心を高めて深める必要がある。伝道対象の意識がどうだこうだと言う前に、そこが第一の取り組みだ。良くも悪くも、これからの歩みには、今まで内的に築いてきたものがそれぞれの歩みに出てくる。それぞれで思案して伝道に対するプロジェクトを立ち上げるにしろ、或いは他の誰かそれなりに勝利した人の歩みをそのまま取り入れるにしろ、それぞれ信仰観が出てくるだろう。この特赦的七年路程のこの期間は食口誰にも等しく与えられている。そして自由に活動できる。しかし自由であるということは結果に対しては文明に責任を問われるということだ。講論の自由の原理的意義にあるように、原理を離れた自由はなく、責任のない自由はなく、そして実績のない自由はない。

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