2013年5月16日木曜日

今日の想い 566

この群れの特異で実に不思議なところは、一方の極と他方の極が混在しており、奇妙にもそれらが同じ中心、父母を求めることによって存在たらしめており、更にその存在自体の発展増殖を見ているということだ。極と極がぶつかり合って分裂崩壊しそうであるにも拘らず、いや敢えてそういう状況に否が応でも放り込まれながらも、その中から真髄を抽出して、見えなかった次なるステージ世界を創出する。それは明らかに正反合ではなくて正分合だ。食口の置かれている状況だけを見ても、割に合わなくもあり、矛盾しているようでもあり、騙されているようでもあり、貶められているようでもあり、しかし父母様への内的霊的信頼をもってその中に差し込む光、その中からスパークする光を見出そうとしている。祝福を見ても相容れない二人を敢えて選ばれたかのようだが、しかし現実そうなのであって、反発する極と極を父母を求めることでひとつになる何かが二人の間に創出される。私達の歩みの中に安定を求めたり、安定という言葉を探そうとしないほうがいい。私達が最も価値視する心情を勝ち取る為には犠牲が伴うのであり、心情と犠牲は裏表であってそれは安定とは無縁だ。今までの教会の体制を見ても、搾取する側と搾取される側があると思えるのは、普通の横的視点からすれば当然そのように見える体質的景色であって、これからは許されないとしても今まではそれを良しとされてきた面もあり、だからこそその両極の関係性から抽出される霊的真髄が教会の発展を促した。犠牲となり、その心情の精誠を天は取られたということだ。搾取すると言うのは共産主義的言葉で横的な捉え方だけれども、縦的な捉え方は侍る侍られるであって、表面的には同じ体質様相でもその霊的景色は全く異なる。私達は搾取されてきたのではなく侍ってきた。勿論その体質がいつまでも続けばサタンが介入し易くなるのも事実であり、全体の発展成長に伴って変わらないのであれば、搾取が現実となり得るだろう。一方の極と他方の極の混在、それはアベルとカインの混在であり、アベルとカインは父母を求めることでひとつになれる道がある。教会批判は外部からだけでなく内部からもある。批判が内部改革に発展するのではなく、アベルカインの関係の中に父母を求めて変わることで発展する。おかしな言い方になるけれども、御父様は敢えて相容れない二人を立ててひとつにしようとされる節が見られ、教会を見ても、敢えて他から反発を抱かせるような活動をプッシュしながらひとつにされようとされた。

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