2013年5月9日木曜日

母の手

ゆっくり移動しながら配膳を続ける。しかし手だけは小刻みに震えていて、隣の皿を小突いてしまって無用な音を立てる。ご飯を盛った茶碗はいいとしても、汁椀は味噌汁がこぼれそうで心配になる。本人は平静を装い、気付かれないように努めている。それでも肩や腕に力が入ってぎこちなく、震えを抑えようと内心必死なのを隠せない。妻は二年前、免疫抑制剤のせいで感染を防ぎきれず、ひどい帯状疱疹を患った。その後遺症が今も残っている。時々胸や背中全般に神経痛を覚えるらしく、痛み止めの膏薬を塗っているし、両腕の震えは止まらない。私はそれでも家事、特に食事の準備は彼女に任せ、大変かどうかは敢えて尋ねない。余程のことがない限り、そして向こうが言い出さない限り、彼女の役割に口も手も出さない。本人もそのつもりだろう。体がどんなに大変で横になっていても、食事だけは起き上がって用意する。出来れば最後の晩餐も本人に用意させて、家族で食べて、そして送りたい。ちょうど映画たんぽぽのワンシーンにあったように、、。あのシーンは泣き笑いせずには見れないが、深刻でもあり、残酷でもあり、しかし美しくもあり、そして宗教的でもある。食べるということは、本来祭司的なものだと思う。常に母の手を通して食事が供えられ、父が口にし、子供が口にし、母自身も口にする。母を介して与えられたものを家族皆が消化し、身と為す。配膳している震える手や腕を見ながら、我が家の誇りはこの痩せ細った震える母の手だと思った。文字通り肉を削ぎ、細い骨に乾燥して皺だらけの皮膚を覆っただけの醜い手だが、この母の手が宝だ。母の手は犠牲を惜しまない。今にも折れそうなその手で家庭を支えている。

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