2013年5月6日月曜日
伝道という私達の役割り
エバと天使長の霊的堕落が把握できていないように、アダムとエバの肉的堕落も把握できていない。エバと天使長の霊的堕落がなかったならば、アダムとエバの交わりは罪とはならなかった。しかし霊的堕落の結果、エバは堕落以前のエバとは違う存在であり、アダムはエバという肉体を被った違う存在と交わったということになる。堕落以前のエバと堕落したエバとは異なる存在だと認識しなければならない。霊的に堕落したということは霊的感性を持っていたということであり、エバに霊的感性があってアダムにはないということはありえないだろう。そうなるとアダムはアダムで天使長とエバの関係を知り、エバが霊的堕落に至ったことを知り、エバが異なる存在になったことを知りながら、それでもエバと交わったことになる。私達は霊的感性が開いていないので天使長という霊的存在がよくわかっていないし、霊的堕落の認識もよくわかってはいない。しかし霊的堕落がわからないように、アダムとエバの肉的堕落についても、私達が肉体的に一線を越えると捉えていることと全く同じかどうかは熟考し尋ねてみる余地があるだろう。大母様が先祖を遡っていけば、今の人間形姿とは随分と異なる存在様相であったと言われるように、元素の在り様にしても、鉱物、植物、動物の在り様にしても、現代と遥か太古の昔と同じだとは言えないだろうし、同じだと思うほうがおかしいだろう。そうなると思考形態、感情形態、意志の形態も現代のそれと同じだと決め付けることはできない。理念だとか、観念だとか、概念だとか抽象的事柄をもって思考するのを当然としているけれども、古代ギリシャ以前にそんな事柄もそれを用いた思考もない。思考感情意志という心魂活動領域、そのステージを越えた膨大な霊的領域に入って霊的堕落の意味を把握し、霊的見地から肉的堕落を見て、堕落論の本質を受け取れれば、堕落した血統圏と堕落と関係のない祝福の血統圏の違いを明確に、実感をもって把握するだろう。御父様は、私達が伝道しなくても、列を為して祝福を受ける時代がくると話されている。もちろんその時代がくるということは、皆の霊感が開いて己の実体を理解する時か、そうでなければ生きる為の地上的恩恵を受ける為に祝福を受けざるを得ないという時だ。もちろんその時代を迎える為の精誠として伝道が必要なのは当然であって、そんな時代が来るのであれば伝道する必要がないと捉えるのは本末転倒だ。私達は伝道を通して、み言葉が必要だと誰もが口にし、祝福を受けたいと誰もが押しかける、そんな御父様の勝利圏を誰もが目にして認める世界を創造していると言える。アダムエバの霊的堕落と地上接点の堕落が、横的広範囲な地上の堕落世界として現されてしまったように、逆に、御父様の霊的勝利を地上の勝利世界として現す、その再創造に加担している我々だということができる。
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